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君がいた夏は 遠い夢の中 空に消えてった 打ち上げ花火

──「高校生になったら、絶対に軽音部に入ってベース弾いてバンドやる」

そんな突拍子のない事を言い出したのは、私が中学2年生の時だった。理由は明白、RADWIMPSのBa.武田祐介なるお方に憧れての事である。というか初めて聴いた“バンドサウンド”がラッドで「この低くて深く胸の奥に響く音、なんていうか、めっちゃ良いな──」という感覚が、私のベース人生の始まりなのであった。
もしもギターの高らかなピロピロ音に惹かれていればそれこそGt.桑原彰、あるいはテクニカルで繊細なドラムに魅了されたならDr.山口智史、といった具合でどの楽器も最高に格好良い訳なのであるから、わざわざ武田さんではなく他のメンバーに憧れていてもなんら不思議な事ではなかったように思う。(敬称略)
それにもかかわらず、私は“ベース”という楽器に心をぐっと持っていかれた。その理由を訊かれても上手く言葉にする事はできない。きっと“直感”だったのであろう。
それもどれもこれもざっと13年以上前の話になるので、ラッドのメンバーも未だ21歳とかそういう時代である。ラッドも私も、とにかく皆若かった。

まず、念願の軽音部入部を果たすためにも、私は第一志望の公立高校に受かる事しか考えていなかった。文武両道な上に軽音部もある。田舎の地元では、軽音部がある高校はわりと限られていた。
しかしながら、その高校に合格するには微妙もしくはヤバめかといったところが現実で、最悪な話、当たって砕け散って軽音部もなければ青春の欠片もなさそうな勉強漬けガリ勉私立高校行きになる可能性が高かった。それだけはマジ勘弁勘弁だと思っていた。マ勘である。
そこで私は不本意ながら一つランクを落とした公立高校のHPを見漁ってみた。そこなら軽音部もちゃんとあるらしい上に、いつだかの県東部合同発表会なるもので最優秀賞を受賞しただけでなく、敢闘賞、ギタリスト賞、ドラマー賞までかっさらったとの事なのであった。言うまでもなく私は、願書提出3日前にして受験する公立高校を変更したのであった。

晴れて私はそこの高校生となり、その高校でいう音楽部(以下音部)に当たり前のように入部した。同じ中学校上がりの2人が同じく音部に入りたいとの事だったので、彼女らを中心として初めてバンドを組む事になった。
そうして私はいよいよ憧れの“ベース”を買いに少し離れた町の楽器屋さんへと繰り出したのであった。店員のおいちゃんの教えを乞い、黒のFenderのジャズベースを購入した。その他アンプやら小物を含むと6~7万円はかかっていたはずである。勿論15歳の私にはそんな財力はなかったけれども、当時の麻生首相がナイスなタイミングで定額給付金というバラマキ政策(小声)を行ってくれたので、一家の給付金はまるっとベース購入費用に充てられたのであった。ありがたい。

入部してまずは新入生歓迎ライブなるものがあった。そこで音部の先輩たちの顔を覚え、今までライブにも行った事がなかった私はそこで初めて生のバンド演奏を観たのであった。
期待通り、どのバンドもとてもレベルが高かった。基本コピーバンドで特に3年生の女の先輩たちのセンスが好きだった。JUDY AND MARY『くじら12号』『Over Drive』などの可愛いだけでないテクニカルな選曲、ELLEGARDEN『TV Maniacs』を演奏する女性陣── 何気に髪を刈り上げている先輩や、お団子ヘアが印象的な先輩など、ちゃんと“パンク”な女の先輩たちを見て私はとにかくワクワクした。
正直なところ、私はバンドをやる上で自分が“女”である事にコンプレックスを持っていて、端的に言えば「自分は所詮女だから、カッコいいバンドは組めない」そう思っていた。そんな呪縛を解いてくれたのが、そのパンクでロックな女の先輩たちの姿なのであった。

そして男の先輩たちの演奏に至ってはとても力強く、前述の大会で最優秀賞を受賞したであろうバンドと個々の先輩は素人目でもなんとなくわかるぐらいにその技術はズバ抜けていた。
よく、先輩のバンドが演奏していた格好良い曲の歌詞を一部覚えて、それをネットで検索してその曲のタイトルやバンドを見つけ当てるのが好きだった。「それってなんてバンドのなんて曲なんですか?」と訊けば一瞬で済む事ではあるのだけれども、そんな遠回りをしながら秘密裏に発掘していった銀杏BOYZやGOING STEADYなんかは、やはり思い入れというものが違うのである。

私がバンドを組んで初めて演奏した曲は、flumpool『星に願いを』だった。決して初心者向けではなく、むしろやや難しい曲のように思われたけれども、話し合いの上で「こういうのは最初からぶっ飛ばしておくのが吉(?)」みたいなバンドの方向性により、誰かの好みでとりあえずこの曲になった。
詰まるところ、“基本より応用から入るタイプ”だとか“見るより慣れろ”みたいな事である。技術を身につけるにあたってそれが正しいか否かはともかくとして、誰も挫折する事なくこの一曲を仕上げられたのはとても嬉しかった。

私は、初心者向けの教本を片手に毎日好きなだけベースを弾いていた。教本にはピック弾きが主流みたいな事が書かれていたけれども、なんだか上手くできなかったし何より煩わしかったので初心者のくせに指弾きから入った。“武田さんだって指弾きだし”みたいなノリではありながら、もろに我流である私の指弾きはとにかくクセが凄い。千鳥ノブもびっくりのクセの凄さであってもそれが私にとっては最も弾きやすいフォームであり、誰も真似しようのない一種の“パフォーマンス”だとも考えていたので全く気にしてなどいなかった。これが野球部の投球フォームとかであったら監督にぶん殴られていた事であろう。こういうのは“自由”だから楽しいのである。

私はいつか直感的に心を持っていかれただけあって“ベース”というものにとことんハマり込んでいった。“こんな魅力的な楽器、他にはない!”とまで思っていたけれども、あの頃はどうしてなのか、部内でベースはまるで人気がなかった。とにかくベース不足が深刻で、数少ないベースの先輩たちが一人2,3バンドは掛け持ちをする事で多くのバンドが成り立っていた。そんな事から私も入部して半年ほど経ったぐらいには掛け持ちでバンドをやるようになっていたのであった。

二つ目に組んだバンドは、途中入部組によるいわゆる“イロモノバンド”なのであった。着ぐるみ姿で演奏しちゃう系の。ディズニーでキャラクターもののカチューシャをつけるのだって涙目ものなのに牛の着ぐるみなんて…、と最初はかなり抵抗があったけれども、いざ着てみるとめちゃくちゃ良い思い出になったので、自分の殻を破るというのはとても素敵な事だと思う。
このバンドでの初曲は、JITTERIN'JINN『夏祭り』だった。Whiteberryではなく本家の夏祭りであるところがポイントで、このバンドの代名詞となった一曲でもある。
やたらと陽気で愉快なボーカル、入学式では隣で寝ていた頭脳派のリードギター、ただの腐れ縁のアタオカなサイドギター、可愛い顔して音感迫力ばっちりのドラマーの皆でワイワイやっていた。

2年生になると後輩もでき、1学年上の先輩たちとも徐々に打ち解けてきて勉強も部活も安定した高校生活を確立する事ができていた。
しかしながら、皆が皆そうではない。最初に組んだバンドのギター担当の子が精神的に不安定になってしまったのである。それはどうやら家庭問題が原因のようで、私が踏み入れようがない闇の中に彼女は堕ちてしまった。
彼女はギターと同じぐらいカッターを持ち歩いていた。腕の傷痕はどんどんと増え、腕だけでは事足りず、太腿も同様に傷だらけになっていった。少し彼女の中で“何か”が外れると、人前であってもボールペンを凶器に自らを傷つける事もあった。そんな様子をクラスの皆は勿論知っていたけれども、かと言って深入りするでも避ける訳でもなく、ただただ横目に彼女を心配しているようなのであった。

私は、その子に近しい人間として彼女にできる適切な振る舞いとはなんだろうかと考えるようになっていた。それまでの私は、死にたいだとか自分を傷つけたいといった衝動に駆られた事が一度もなかった。早い話、私は“共感“という手立てで彼女に寄り添う事は不可能である事だけは早々に解っていた。
結局答えは出ず、その日も右膝に刃を立てている彼女に対して私は「やい、血出ちゃってるぞ。そろそろ部活に行こう」と言って彼女の自傷衝動を受け入れながら、あくまで私らしく、そして今まで通りに振る舞ってみるのであった。
貴女がどんなに傷だらけになっても、私たちは離れてはいかないからと安心してほしかった。彼女がその後、酷い摂食障害になった時もその思いは変わらなかった。そして彼女はどんな時もウォークマンだけは手離そうとしなかった。

2年生の10月末になると、恒例の県東部フォークソング大会が開催された。私がこの高校を選ぶ大きな決め手となったあの大会である。かつての2学年上の代に続いて、1学年上の代も最優秀賞とギタリスト賞を受賞していた。7校ぐらいの計30組ほどが出場する中で去年に引き続き、私たちの代も最優秀賞を獲らねばというプレッシャーがあったし、当然そのつもりでいた。

私は一つ目のバンドで、RADWIMPS『セプテンバーさん』そして二つ目のバンドでGO!GO!7188『赤い月に吠える夜』を演奏した。
ベースにおいて、セプテンバーさんには“ハーモニクス”という柔らかな高音を鳴らす技法があるのであるが、当時の私はそれを弾くのがマジで上手かった。もう、武田さんより上手かったとか言っちゃう。とはいえ、あれほどまでに会場に優しく響き渡るハーモニクスも、今はもう出せなくなってしまった。
赤い月に吠える夜ついては、ベースがメインでありながらギターソロもあって全体的にバランスの良い曲であるため、まさに全ての賞を本気で狙えるような選曲なのであった。

結果、狙いに行ったはずの二つ目のバンドは敢闘賞に終わった。しかしながら、肝心の最優秀賞は我が校の別バンドが受賞したため、学校としては見事3冠を果たしたのであった。それが本当に嬉しかった。ちなみにその他にもボーカリスト賞とベーシスト賞もかっさらってきたのであるが、ありがたい事にベーシスト賞は私がいただいたのであった。

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(鉛筆書き…。)

そうして、我々音部は大会3連覇という事で地元新聞社から取材を受けた。そのおかげでこれまで肩身の狭かった音楽部はそれなりの地位に昇格し、犬猿の仲であった吹奏楽部にも「ジャンジャカうるせえ」と言わんばかりの怪訝な目で見られる事もなくなった。

そんな事もかれこれ10年近く前のお話なのであるが「表彰状を持ってお前が真顔で新聞に載っているのを見た」と、今年のお正月にたまたま地元の駅で出くわした中学の同級生がいきなりその事を切り出してきたのには驚いた。一体いつの話をしてるんだ、とついつい私は笑ってしまった。
ちなみにその同級生は、私がかつて第一志望としていた高校に進学した猛者である。もしも彼と同じその高校に進学できていたならば、私はどのような高校生活を送っていたのであろうか── そんな事を考えてみたりもしたけれども、あちらの軽音部の演奏は正直あんまりだったし、ベースを通じて自信を持つ事ができたという意味でも、私は受験直前に人生の舵を切り換えて大正解であったと思っている。

そんなにレパートリーがあった訳ではないけれども、BUMP OF CHICKEN『天体観測』やステレオポニー『ツキアカリのミチシルベ』、土屋アンナ『Rose』やGO!GO!7188『C7』、9mm Parabellum Bullet『Supernova』をやったものだと久々にそんな懐かしの曲たちをYouTubeで漁ってみたら、なんだか胸がヒュンとした。

その中でも、涼宮ハルヒの憂鬱でお馴染みの『God knows...』を文化祭の日の後夜祭で弾いてほしいと先輩たちからお声がかかった事はとても嬉しかったのでよく憶えている。サッカー部兼任のイケメンで有名な先輩が放課後、私の教室にやってきて「チョイチョイ」と廊下に呼び出してきた時は何事かと思ったものである。いもなので無駄にドキドキした。
学年の垣根を越えて先輩たちがベース担当に私を選んでくれた事は、本当に光栄だった。後夜祭まで時間がなくて音合わせをしたのは直前練習にさらっと程度ではあったけれども、難易度の高い曲であるにもかかわらずいざ本番もバッチリで体育館は大盛り上がり、まさに“青春”そのものなのであった。

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音部に入部して、ずっと憧れていたベースに初めて触れた。そしてなんの取り柄のなかった私に“ベース”という特技ができた。部内外問わず「ファンです!」と言ってくれる後輩の女の子たちが現れてチヤホヤされたのも最高だった。逆にときめいた。
皆で楽器を背負って登下校していたのも、週末にスタジオ練習へ行っていたのも懐かしい。音部の評判を聞きつけて経験者だという新入生たちが部室に押し掛けてきた事も、体育祭の部活対抗リレーでギターをバトンに走った事も。ただただ、その全てが懐かしい。
それから、ベースを背負いながら自転車に乗って駅までの長い坂を立ち漕ぎする登校スタイルはまさに十代の若さと希望が生み出した奇跡の光景であったとつくづく思う。あれはさすがにもう真似ができない。キツすぎる。

そういえば一昨年、いつぶりかわからないぐらい久々に初めてベースを買ったあの楽器屋さんに一人で入ってみた事がある。ギター類のコーナーにはすっかり白髪頭になったあの店員のおいちゃんが変わらずそこに居たのであった。
あの日と同じように私に声をかけてきたおいちゃんに「私、10年近く前にここで初めてのベースを買わせてもらったんです、当時高校生でした。その時、おじさんにお世話になったんですよ」そう話してみたらなぜだか私は無性に泣きたくなってしまった。
勿論おいちゃんは私の事など憶えているはずもなかった。だけれども、私はその楽器屋さんに足を運べば、いつでもあの“始まりの日”に戻れるのだと思えてなんだかえらく安心したのであった。

──我が音楽部人生に悔いなし、心の底からそう言える。これからもずっと憶えていたい、何よりも大切な部活の思い出である。

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