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アルバイト中に流れる「ヘロン」と「マザー」に、気持ちを支えられた記憶。

 その先に、息を止めるような生活が待っていたことは、自分では知らない。だから、それ以前の状況でも、かなり真っ暗な感覚だったのは、何しろ、収入が少なく、増える気配もなかったからだった。

減っていく仕事

 フリーのライターになった時は、1980年代後半だから、後から振り返れば順調に近く仕事があった。最初はアルバイトもしていたけれど、少したったら、仕事が増えた。フリーになってから5年後くらいには、単行本を出すこともできた。だけど、その本の出来には自信があっても、売れなければ、それから仕事が増えることも難しかった。

 そこから少しずつ下がっていった気配があったけれど、自分では気がつかないようにしていた。

 その原因の一つには、その当時は、原稿を手書きで書いていて、ファクシミリで送る、という方法をとっていたのだけど、文字を書くのは下手なくせに、“ワープロで書いてみては”という編集者のススメにも気乗りがせず、その方法を変えなかったことだと思う。

 書き方を変えると、これまで一応は鍛錬してきたつもりの文章に悪い影響が出ないかと怖がっていたから手書きを続けていたのだけど、それは、もっと才能がある人間が心配することだと、その当時は気がつかなかった。手先が極端に不器用だったせいもある。だから、これからキーボードで文字を打つ作業ができるとも思えなかった。

 それに、いわゆる営業も足りなかった。フリーになった頃は、手書きの企画書を送り、そこに、いくつかの選択肢を自分で作った手書きのハガキをつけて、その返信が来て、仕事を続けられた。後から考えると、よく仕事を依頼してくれたと思うくらいだったが、それ以来は、そんなに頻繁に人と会う努力もしなかった。

 1990年代の後半になり、仕事は減っていった。
 自分が景気がいい頃にフリーライターになって、そのあとは、明らかに不景気になっていったから、書く場所自体も減っていった。
 休刊、という名前の事実上の「廃刊」という事態が珍しくなくなっていた。

 結婚していたし、生活もあるし、家賃も払わないといけない。
 ライターは、出版社などから仕事が依頼されなければ、無職と一緒だったけれど、いつ仕事が入るか分からない。さらには、取材をして書く、ということしか出来なかったから、なるべく予定を開けておきたかった。結果として、何もない日が多くなったが、先の予定が決まっていない休日は、微妙に緊張感があって、楽しくなかった。

10年ぶりのアルバイト

 そんな時間が続いて、予定を開けていても、仕事がそんなに入らないのならば、その分、アルバイトをしよう、と思えるまで、少し時間がかかった。それは、待っていれば、仕事が来るような期待を捨てられなかったからだ。

 30歳を超えて、ライター以外に何もできない自分にできるアルバイトは限られていた。それも定期的にするほど、まだライターの仕事を諦められなかったので、年末・年始に短期間でできる仕事を探した。宅配便の仕分けを見つけた。

 アルバイトは、10年ぶりくらいだった。これまでは、ライターの仕事だけで、何とか暮らしていけたのに、などと思うと、ちょっと暗くもなる。

 仕事の始まりは、現地に向かうことだった。

 駅から数分歩いて、ビルの前に集合する。
 何人か、用事があるような、ないような人たちが集まって、そこに送迎バスが来る。
 そうすると、人が吸い込まれるように乗っていき、自分もその一人になる。

 バスに乗って、10数分。だんだん海沿いに向かって走って、倉庫ばかりがあるような場所を通っていくと、気持ちがなんだか寂しくなるというか、微妙に不安になる。そのバスの中には、ほとんど会話もなく、静かなまま、時間がたって、現地に着く。

 大きい建物があって、その2階に事務所に行って、何かしらの手続きをして、あとは「いつ出勤するか」を詰められるように、再確認されるように、その現場の男性に聞かれ、そして、答える。絶対はないので、もしも都合が悪くなったりしたら、という言葉を出しただけで、その日は来られない、ということですか?と厳しい表情で強めにいわれ、いえ、そんなことはありません、と答える。

 そこに穏やかな空気はカケラもないが、渡された小さな冊子には、バイトとして気をつけるべきことが、的確に書かれていて、それには、かなり感心もして、企業としての凄さを感じた。

仕分け作業

 働くのは午後から夜まで、確か4時間から5時間ほど。

 ベルトコンベアの前に立ち、流れてくる荷物を見て、その表示によって、仕分けをする。
 ただ、それだけなので、慣れるまでは少し時間もかかるが、それでも、そんなに失敗もしない。
 体は意外と動かすし、年末で寒くなっているのに、ものすごく汗をかく。

 黙々と作業を進めて、同じことだけを繰り返す。
 荷物が流れてくる時は、次々とやってきて、スポーツのように一瞬も気が抜けないような時間が続く。
 体が思ったより、疲れることに早めに気がつく。

ベテランの若いアルバイト

 周囲のアルバイトは、もっと若く、20代くらいで、しかも、ずっとバイトをしているせいか、顔見知りのようで、会話をしながら作業をしているから、楽しそうに見える。しかも、作業に慣れているから、リラックスさえしているようだ。

 まれに、荷物が空を飛んで、それは、作業のミスを素早く修正している行為のようで、なんだか、感心もする。

 そうしたベテランのアルバイトは、当然だけど、こちらの存在自体を無視していた。少し慣れてきたような気がしたので、ベルトコンベアで流れてくる荷物を、自分の担当でなくても、先まで流れていく荷物を、向きを揃えて、記号が見えやすく、ということをしていたら、注意をされる。

 そういう余計なこと、しなくていいから。

 ベテランのアルバイトは、見ていないようで、見ているようだ。


 荷物は流れ続けて、それから、急に流れが止まる。

 その間に、どこへ運ぶかによって、荷物をかごに分けていたので、そのカゴを次の所定の位置に移動する。
 指定された場所に押していって、移動させても、ベテランの、でも20代に見えるアルバイトに、彼の都合によって、“ここに置くなよ”などと言われ、時間をおいて、また再び、そこに置くようなこともあった。

 ただ日によって、そのベテランのアルバイトがいない時は、同じ作業をしても、何も言われなかった。

辛い時間

 私は、ただ黙々と作業をする。
 途中で、汗だくになったTシャツを、そのままだとカゼをひいてしまうので、どのタイミングで着替えるか?ばかりに気持ちが行ってしまう。
 時々、信じられないくらいの重い荷物がある。

 単純で、軽作業とはいっても、30代になると、体に負担が来るようだった。

 年末と年始で、人が足りなくなる時のアルバイトで、2週間程度。他の人にとっては、いろいろな意味で、たいしたことはないのだろうけど、私にとっては、辛かった。手首が少し痛くなり、久しぶりにサポーターを使った。

 バイトが終わった時は、解放感もあったが、そのころは、年齢も高くなったせいか、誰かが声をかけてくれることもなく、午後から夜にかけて、ただ黙って体を動かして、そして、翌日も行く。

 日曜日は、作業場所が違う、という説明がされていたようだけど、通い慣れた場所で降りてしまい、誰もいなくて、連絡をし、クルマで迎えに来られる、ということもあった。

 説明聞いてなかったのか。

 そんな言葉を、独り言のような、こちらに向けられるように言われ、謝るしかなかった。

作業中の音楽

 天井が高く、広い場所で、人が動く。
 そこには穏やかさや、温かさは、ほとんど感じられなくて、それぞれが自分の作業を進めている。

 その場所にトラックが来て、荷物が下され、それがベルトコンベアに乗せられ、さらに、配送先ごとに分けられ、また違うトラックに乗せられる。

 言葉にすると、おそらくそういうシンプルな作業が続けられているが、アルバイトとして、私は、そのごく一部分だけを担当し、とにかくミスしないように、荷物を傷つけないように、それだけを思って、体を動かし続けていた。

 単純作業だった。

 誰とも話さないような時間だったこともあって、思ったよりも辛く、終わる時間だけを願って、体を動かしていたのは、体力のなさも関係あるかもしれなかった。
 
 その広い場所に、音楽が流れている。
 ラジオやテレビで聞くようなメロディーが、アトランダムに聞こえてくる。
 音が微妙に割れていたりするけれど、工場の機械音や、多少の人の声だけだから、すさみが進みそうな空気の中で、音楽は、やっぱりありがたい気がする。

「ヘロン」と「マザー」

 何十曲かが、繰り返されていることに、何時間かたつと、気がつく。

 自分が、どの曲で、少し力づけられるのかも、分かってくる。

「ヘロン」と「マザー」。

 山下達郎と、パフィーの声が聞こえてくると、ただ気持ちが固まるように、目の前の作業だけをしていて、モノクロになっていた気持ちが、少し軽く、さらに色がつくのがわかる。


 いつの間にか、その2曲を、どこか待っている気持ちになっていて、それによって、自分にとっては、辛い時間を、次に、その曲が聞こえてくるまで、というような思いによって、少し気持ちが支えられていたように思う。


 その時の重い気持ち、辛かった体。ベテランのアルバイトたちの慣れた作業姿。考えられた冊子。そうした記憶とともに、音楽を聴いた時の、わずかに気持ちがほぐれる感覚も、少し覚えている。1990年代が終わる、20世紀末の頃だった。

 翌年くらいから、介護離職をして、介護に専念する時間が続くから、この時は、まだ、実はそれほど暗くない時間だったことを、その時は、当然だけど、知らなかった。

 アルバイトの送迎バスの中で、わずかに交わした会話の中で、この仕分けのバイトは、一度でもしておくと、人手が足りないときは、問い合わせれば、すぐに働けるよ、とベテランのアルバイトの人に教えてもらったけれど、個人的には辛いままで、そのバイトは、年末と年始の約2週間で終わって、今のところ、働いていないままで時間がたっている。



(「ヘロン」が収録されているアルバムです↓)

(「マザー」が収録されているアルバム↓です)。




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