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読書感想  『燕は戻ってこない』 桐野夏生 「今のこと。先の見えない揺れを書くこと」

 どんな経緯で、読もうと思ったのかは、よく覚えていないが、図書館で予約したら4ヶ月待った。本当は購入した方がいいのは分かっているのだけど、申し訳ないが、今の経済状況では厳しい。それでも読みたい。

 次の予約も入っている状況だから、読み終わるまでに2週間の制限があって、家に持ち帰った時は、かなり厚いから、1日にこのくらいは読まないと間に合わない、などと思っていたが、読み始めると、時間の進み方が変わったと思えるくらい、スムーズに読み進めていて、読み終わっていた。

 長く、多くの読み手に届く小説を書き続けているプロの凄さを、改めて感じた。

『燕は戻ってこない』 桐野夏生

 自分では、どうしようもない。

 生まれてきて、生きていく上で、ほとんどがその要素で出来ていることに、年を重ねるごとに改めて気がついていく。

 それでいいこともあるが、悪いことの方が多い、と思うが、この小説の主人公は、さらに厳しい毎日を生きている。

 仕事をしているけれど、非正規雇用のせいもあって、ずっとぎりぎりで、ただ消耗する毎日になっている。29歳の女性。

 そして、お金になるからと、卵子提供の仕事を友人にすすめられる。その卵子の値段でさえ、人によって違うのではないか、という情報に接する。

「ずっと値踏みされる人生じゃん」
 テルが吐き捨てるように言った。
「そりゃそうだ」
 同意したきり、言葉が出ない。まったくもってその通りだ。値踏みされて、あんたのできる仕事はこれしかない、と言われ続けてきたからだ。では、もっと頑張れよ、やる気になれば、もっと上にいけるじゃん、と言うヤツは馬鹿だ。そんな自助努力とか言われたって、出発点からすでに安く値踏みされるグループに入っているのだから、自分の力だけじゃどうにもならないんだよ。状況を説明したって、親きょうだいだって理解できないのだから、世間の人に絶対にわかるわけがない。こんなに金がなくて困っているのに、誰も手を差し伸べてくれないじゃん。

 結果的に、そのクリニックでは、あらゆることに恵まれた生活でありながら、子どもを持つことができなかった夫婦の「代理母」になることを提案される。

 そこから、迷いや恐れがありながらも、生活のために、生きていくために、「代理母」になることを決意する。

揺れる気持ち

 分かりやすい善人も、迷いのない悪人も出てこない。どの人も、様々な出来事によって、善良になったり、狡猾さが前面に出てきたりする。

 主人公の、気持ちも揺れる。

 全くの他人に精子だけを提供され、その処置のたびに苦痛を味わうし、その「代理母」の件は、当事者以外には、当然ながら秘密のうちに進められることだから、より不安や孤独感は増す。

 妊娠して出産する。

 それは今のところ、女性の身体を持った人にだけ可能なことであり、どんなに医学が発達したとしても、不安と苦痛と、命をかけた行為であることは変わりがない。男性である私には、「代理母」を依頼することになり、精子だけを提供する小説の中の「夫」と同じくらい、その怖さが実感として、わからないと思う。

 ただ、「代理母」を決意した後も、さらに、様々なことが起こり、依頼者の「夫婦」との様々なすれ違いも次々と起こる。妊娠するまで、さらには、妊娠中、出産、その直後も、かなり短い周期で、外から見たらささいに思える人との関わりによって、主人公の気持ちは、よく揺れ動くけれど、それは、生きているというのは、本当は、そういうことだと思えてくる。

 そして、それ以外の登場人物の気持ちも、同じように、本人でも分からないような原因で、細かく変わるし、傲慢さをむき出しにしたかと思うと、得体の知れない不安にさいなまれたり、急に優しさをにじませたかと思うと、またさらに揺れ動いたりする。

 それが、やっぱり生きていくことだと、改めて思う。

「今」を書くこと

桐野夏生さんの新刊は、女性の貧困と生殖医療ビジネスの倫理をめぐる長編小説です。生殖医療の発達は人間を幸せにするのか。『OUT』から25年、日本の女性の「今」をとらえつづけてきた桐野さんに、お話を伺いました。

 「代理母」という存在は、今の医療の発展がなければ、不可能なことで、それまでは、どれだけ望んでも、出来ないことだったが、一度でも、それが可能になれば、これまでは叶わなかった望みが、急に実現可能なものとなる。

 それでも、現代では、金銭という力が必要になるし、その実現のためには、誰かが身体を差し出すような状態を提供する前提が必要になる。そういう現実は、すでに存在しているし、この作品の中にもあるように貧しい国ほど「代理母」が多く、具体的にはウクライナ、という国名も登場している。

 「妊活」という言葉が広く知られるようになった。

 様々な医学的な方法を利用して、妊娠、出産を目指す夫婦は、かなり多いわけだし、完全な理解はもちろん出来ないものの、依然と比べると、その大変さも含めて、イメージがしやすくなっている。

 だけど、これまで「代理母」という存在はあまりにも遠かった。どこか遠い国の出来事で、そして「代理母」という固有名詞の強さに、その本人の事情のようなものにさえ、恥ずかしながら想像することもできなかった。

 ただ、小説を読んだだけで、分かったような気になってはいけないけれど、近い将来、「妊活」の中に、「代理母」という選択肢が、自然に入ってくる可能性もある。そんなことを、少し想像し、その時の「今」を考えることは、わずかだけど出来るようになったかもしれない。

 こうした「今」のことを、桐野夏生という小説家は、70歳になっても書いている。

 年齢のことをことさら取り上げるのは、失礼でもあるし、問題にもなるとは思うのだけれども、それでも、それ自体がとても凄いことなのに、すごいと感じさせいないほど、自然に持続している。そうした小説家の存在自体が、特に、自分が年をとってしまった、と思えるような読者には、読後に改めて勇気づけられることに気がつくし、大げさかもしれないが、何か感謝するような気持ちにもなる。

おすすめしたい人

「今」の時代を、より知りたい人。
「今」を生きていくのに、疲れを感じることが多くなってきた人。
 
 読んで、すぐに元気づけられるような作品ではないのですが、読んだ後に、心の深い部分に、自分にも生きていく力があることに気がつく。そんな作品だと思いますので、この記事で、少しでも興味を持っていただいた方には、おすすめできると思います。

 本文で、445ページありますが、読んでいる時は、その長さを意識できないほど、次々といろいろなことが起こりますので、思ったよりも、早く読めるのではないか、とも思っています。



(他にも、いろいろと書いています↓。よろしかったら、読んでもらえたら、うれしいです)。




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