見出し画像

それでも投票に行く理由。

 今は18歳に引き下げられたけれど、20歳で選挙権を得てから、基本的には、選挙がある時は、ほぼ全てに投票をしてきた。

 だから、何回、あの不思議な感触の投票用紙に、政党の名前や、候補者の氏名を書いてきたのかは忘れてしまったけれど、もしも、その正確な数字がわかったら、次の投票に行きたくなくなるくらい、結果的に「死票」率が相当に高いような気がする。

 さらには、統一地方選挙だと、投票率は50%を割っているから、ついに投票に行くほうが少数派になってしまった。

 それでも、次も選挙に行くと思う。

不思議な関わり

 今回は、区議選と区議長選があって、それは、2023年春の統一地方選挙という呼び方をされている。

 いつもは不用品回収や、ピザや、寿司のデリバリー、あとは水道工事、たまに信仰関係。さらには、DM。それに混じって、時々、私信が届いて、それは、やっぱり嬉しいのだけど、こうした選挙の時期になると、急に、自分のことをとても強めにアピールするチラシや、ハガキなどがボストに、かなり届く。

 候補者という知らない誰かだけれど、それでも自分が気にかけられているような気持ちにはなって不思議な思いにもなるけれど、選挙が終わると、そのチラシやハガキは一斉に姿を消すから、それは、さくらが満開になって、短い期間で全部散るような情景と、ちょっと印象は似ているのかもしれない。

 個人情報保護法ができてから、以前よりは、自分の情報について、うかつにさらしてはいけないのではないか。という意識になっているから、こうして、自分の卒業した学校を、小学校から、大学。就職した会社や、家族構成、さらには、自分の思想信条を事細かに書いている候補者という政治家志望、そして、政治家という人たちは、よけいに感覚が、日常的ではないのだろうな、と感じる。

 それでも、自分が候補者として立候補しない限りは、自分の代わりに政治をしてもらうために、その誰かに投票するしかない。

投票の基準

 これまで、どこかの政党の党員になったこともないし、何かの政治的な団体に属したこともないし、特定の宗教を信じたこともなければ、会社自体も3年ほどしか勤めたことがないから、元から、組織に適していない自覚はある。

 そして、どこかの政党を支持してもいない。いつも、違う政党や、時には無所属の候補者に投票する。ただ、その時の与党には、ほとんど投票したことがないと思う。

 この30年でも、先進国の中で、日本だけが賃金が上がらないということは、個人の問題ではなく、政策レベルの課題であるから、そうした政策に対して、同意ができなかったからだ。

 さらには、20年近く、介護をした経験がある。介護保険の運用が始まったときと、ほぼ同時に介護を始めたので、特に介護保険の「改定」のたびに、怒りを感じるほど、何か、よく分からない理屈がついた上で、「サービスの抑制」ばかりをされてきた、という印象があったので、それを促進する与党には、賛成ができなかった。

 それに加えて、これは自民党へ投票しない理由なのだけど、独自の憲法草案では明確に表面化したと思うのだけど、それまでも、その根のところでは、どうしても戦前回帰の方針に思えて、投票に対しては、積極的になれなかった。

 基本的には、今の社会に満足であれば、与党に投票し、逆に、不満があり、政策でなんとかできるのではないか、と思えるときは、その時の野党に投票してきた。

 普段から、それほど政治的な意識が高いわけでもないけれど、電話などで特定の候補者への投票を促されても従ったことはないし、一応、自分なりに考えて投票してきた。それは、とても平凡なことだと思う。

選択のトレーニング

 この候補者は素晴らしい。ぜひ、投票したい。

 そんなことを思ったことは、一度もない。

 政党にしても、この政党を絶対的に支持したい、と思った記憶もない。

 どの候補者も、政党も、全面的に信じられるわけもないし、政治家という人たちを、それが社会に必要で、その人たちの能力によって、毎日の生活が変わってくるとは思っても、申し訳ないけれど、好きになれたこともない。

 それでも、誰かに投票しなくてはならない。

 時々、白票は、誰も投票したい候補者がいない時に、抗議の意志を示せる、といった言葉を目にすることがある。普段は陰謀論などは信じない方なのだけど、もしかしたら、こうしたことを強調する人は、現在の与党に力を貸すために秘かに雇われたのか、と考えてしまうくらい、この行為は、ただ、現状肯定の意味しか持たないのに、とは思う。

 だから、いつも誰かに投票する選択をする。

 
 一番、参考にするのは、選挙公報で、そこで一応、全員の候補者を見てみる。

 顔ももちろん見るけれど、すごくいい人相の人に、ここで出会ったことはない。それでも、特に手書きの主張が、すごく変わっていて、そういう意味での興味深さもあったり、極端な思想と思える人は、どうして、こうしたことを考えるようになったのだろうと想像したり、それでも、まずは、とても投票できない人を除外していく。

 そして、今の与党に不満がある時は、その主張に少しでも同意できそうな野党の候補で、投票すれば当選しそうな人を選ぶ。そういう候補者がいない場合は、それでも、社会が少しでも良くなりそうな候補者にする。その中で迷ったら、男性ではなく女性、年齢はより若い人にする。

 そんな粗い分析だから、それほど的確な選択をしているとは思わないが、それでも、毎回、そうしたことをするのは「選択のトレーニング」にもなると考えているからだ。

 このことは、前も書いた記憶があるので、繰り返しになるかもしれないけれど、ベストを選ぶのではなく、どれも選びたくない中から、それでも少しでもベターな選択をするトレーニングになるとも思っている。

 それは、世の中を生きていく時に、似たような選択をする機会が多いと感じているので、その時に、できるだけ少しでもベターな選択ができるようになるためにも投票をしてきた。

 それが、投票をする理由の一つ目になる。

 ただ、今回、こうしたポッドキャスト「サイジドウラクEP.6」を聞くと、自分の情報不足を改めて知った。

 選挙公報だけではなく、候補者のSNSを見たり、「議会だより」。さらに、候補者本人に会える機会があれば、生かしてほしい、ということも知ったので、自分は、まだまだ、選択する際の材料が、とても足りなかった。

 ただ、少しサイトを検索しただけで、やっぱり、その情報の多さに、ちょっと気持ちが引いてしまう。

投票率の意味

 国政選挙では、投票率は、5割ちょっとで、投票に行く人間は、かろうじて多数派になるのだけど、統一地方選挙では、ここのところは40%台になっているから、すでに少数派になってしまっている。

 他の場面でも、社会的には、少数派になることが多いような気がしてきたのだけど、ついに選挙でも、そんな立場になってしまった。

 今は、とにかくルールを守れ、和を乱すな、という教育になっていて、そのルールが本当に妥当なのか、と検討するような発想は尊重されない。

 そういった教育のためなのか、大学生が、自分の意見を言うことに慣れていないように見える。周りに合わせることばかりが、体に染み付いているのではないか。

 社会の先生が、社会のことを語れなくなっている。政治的公平性、といったことばかりを言われ過ぎて、投票に行ってもいいんでしょうか?という質問が若い教師から出るくらいになっている。

 出かけていったイベントで、教育現場を知る人から、そんなことを初めて知り、だから、選挙という場面で、投票という行為で、自分の意志をはっきりさせること自体が、少数になりつつあるのかもしれないから、投票率が下がっていくのは、ある意味では必然なのだろうか、とも思う。

 投票率をどう上げるか?については、いろいろな人が考えたり、実行していたりするので、それほど語る資格もないし、それについて書くとすれば、長い文章が必要になると思うので、別の機会に考えたいが、最近でも、投票率が上がらないささやかな理由が一つわかった気がした。

 4月8日に、地元の区役所に行った。

 選挙公報があれば、と思ったからだ。新聞をとらなくなってから、選挙公報が確実にくる訳ではなくなり、以前は、特定のコンビニにあったりもしたけれど、4月23日が投票日だから、二週間くらい考える時間があればと思ったのだった。

 だけど、区役所には、まだ選挙公報はなかった。そして、案内のスタッフに聞いたら、いつ選挙公報が、ここに並ぶかもはっきり知らず、かなり直前になるらしい、といった話を聞いただけだった。

 かなり選挙に関心がある区民、みたいになっていたのだけど、そのやる気が実らなかった。投票日の週の水曜日に投函される、ということが区役所のサイトにあったのだけど、せめて、一週間くらい前にしてくれればと感じたし、ポスターなどで投票を呼びかけているのだけど、本当は、投票率を上げる気がないのではないか、と思ってしまった。

(※今回は、4月23日の投票日前、4月21日、金曜日に選挙公報は、ポストに投函されていた)。

それでも投票に行く理由

 それでも、少数派になったとしても、投票には行くつもりだ。

 選択のトレーニングになる、というだけではなく、さらに理由は2つほどある。

 私のような人間が語るまででもなく、日本でも、選挙で投票できる人は限られていた。女性が選挙に参加できるようになったのは、戦後からで、今のように成人が誰でも選挙に参加できるようになり、また被選挙権も持てるようになるまでには、少し歴史を遡るだけでも、多くの人が、今のような普通選挙制度にするために、本当に努力して、時には命をかけてきたのを知る。

 偽善的に響くかもしれないけれど、そんな無数の人たちの夢が叶ったのだから、今の世界に生きている以上、やはり投票すべきなのではないか、という気持ちがあり、それが投票に行く理由でもある。

 さらには、今のように投票率が低いままだと、ただ上げればいいという訳でもないのだけど、それでも、半分も行かない状況であれば、政治家の、政治に対する緊張感がゆるむのではないか、という気持ちもあって、だから、ほんのわずかでも投票率を上げたい。それが投票に行く理由の3つ目になる。

 最近、読んだ本で、これがそれほど間違っていなかったことを改めて知る。


(17歳からの、というタイトルですが、恥ずかしながら、私も知らないことが多く、政治に関心をもちたいけれど、どうすればいいのかわからない、といった方に、おすすめできると思います↓)。

 選挙に行かない人が増えて、権限や情報が集中している政府や政治に対する監視や関心が弱まっていくと、政治や行政、それらに近い立場にある人たちにどういうインセンティブが働くか、想像してみるとよいでしょう。

 もしあなたが政治家なら、好き勝手したくなりませんか?僕ならなります(笑)。

 低投票率は若い世代の問題と言われがちですが、40代以下の世代で投票率50%を割り込んでいます。(中略)
 選挙制度が前提としている、「投票に行くのが普通で、例外的に投票に行かない人がいる」という状態が逆転しつつあると言えます。つまり、投票に行かないのが普通で、投票に行くことが特別だという人たちが若い人たちに限らず増えているということです。

 政治に対する関心や、監視を行うことを通じた緊張感がなければ、すぐに政治は堕落します。それは歴史の教訓です。   

 もちろん、投票する人間の判断力がかなり高いレベルを要求されているのが、民主主義というシステムな気はするのだけど、まずは、少しでも投票率が上がらないと、それは監視が弱まっている象徴にもなるのは間違いない。

 自分の一票は、とても小さな力しかない。

 それでも、投票しないと、その小さな分だけだけど、政治に対する監視の力は弱まる。

 その自分の力の小ささを考えると、虚無感や無力感に襲われるけれど、そして、また死票になる確率も高そうだけど、だから、今回も投票に行こうと思っている。



(他にも、いろいろと書いています↓。よろしかったら、読んでもらえたら、うれしいです)。




#習慣にしていること    #選挙   #投票   #投票率   #社会
#政治   #政治家   #最近の学び   #選挙公報 #候補者
#統一地方選挙   #選択のトレーニング #監視   

この記事が参加している募集

習慣にしていること

最近の学び

記事を読んでいただき、ありがとうございました。もし、面白かったり、役に立ったのであれば、サポートをお願いできたら、有り難く思います。より良い文章を書こうとする試みを、続けるための力になります。