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読書感想 『なぜ日本人は世間と寝たがるのか』 佐藤直樹 「知っておくべき怖さ」

 強めのタイトルだと思った。
 普通ならば避けたいところなのだけど、何かで著者の言葉に触れて、少なくとも、「世間学」というものを少しでも知っておかないといけない、という気持ちになっていたから、読み始める。

 読み進めると、このタイトルを採用したのは、それだけ伝えたい動機が強い、ということだと分かってくる。この内容は、知っておくべきことで、知っておかないといけないことだ。だけど、今まで知っているはずなのに、気がつかないことだと分かってくる。

 こういう言葉にしにくい、ややこしさがあるのが、「世間」だということは、この著書を読むことで、改めて分かってくる。そして、どこか古い考えに思える「世間」は、今でも健在だということに気がつくのは、ちょっと怖い。

『なぜ日本人は世間と寝たがるのか:空気を読む家族』 佐藤直樹

「世間」という言葉は、聞く機会が少なくなってきて、だから、「世間体」ということを、やたらと繰り返してきたのは、自分の親の世代で、すでにその「世間」の存在感は薄れていたと思ってきた。

 同時に、「世間」というものは、もちろん単語や表現としては異なるものの、どの国にも文化にもあるのではないかと思っていたのだから、実は、そんな風に思う自分の中にしっかりと「世間」が内面化していることに気づくべきだった。

 「世間」とよばれる人間関係は、どこの国や地域においても普遍的に存在するものだと思われるかもしれない。しかし、とくに現在の西欧との比較においては、日本特有のものであり、おそらくお隣の韓国や中国にも存在しない。

 この部分を読み、最初に思い出したのは、今も改めて議論を呼んでいる「夫婦同姓」のことだった。結婚する際に、どちらかの姓に「しなければいけない」国は日本だけ、という言葉を、確か国会か何かで語られていたのだから、事実のはずだけど、まさか「日本だけ」とは思っていなかった。

 同時に、「夫婦別姓」というよりは、「同姓でも、別姓でも選べる制度」にしたい、という意志にまでも反対し、事実上の「同姓強要」にこだわる人たちのことを考える時に、「世間」は、今は日本にしか存在しないこと、と強く関係しているのかもしれない、と思った。


「世間」のルール

 著者は、イギリス滞在の時の具体的な経験などによって、西欧には、「人と人との距離」が保たれる「荒野のような自由」があると表現し、それが、日本には、現在も存在しないと指摘する。

 いつも自分がまわりから評価されていて、その評価に答えなければならないとみんな考えている。それは、具体的な暴力や抑圧ではないが、いってみれば「真綿で首をしめられるような抑圧感」といえる。問題は、このような抑圧感がどこから生まれるのかということである。

 著者は、それは、日本の「世間」にあるルールのせいではないか、という。

 「世間」を構成する「贈与・互酬」「身分制」「共通の時間意識」「呪術性」という四つのルールを説明した。ルールというとなにか、自分の外側からいろいろ強制してくるようなイメージがあるが、そうではない。大事なことは、それが一人一人の心に内面化されているということである。
 「世間」が内面化されているということは、一つには、「世間を離れては生きていけない」とよくいわれるように、所属することが、人々に「存在論的安心」をもたらしているということである。

 それぞれ言葉の表現はやや硬いが、「贈与・互酬」は、「お返し」であり、「身分制」は今だに夫婦茶碗の大きい方が「夫」」という形で残っていたり、「共通の時間意識」が生む過剰な「平等であるべき主義」や、「呪術性」は、冠婚葬祭の時にそれこそ真綿で首を絞めるように襲いかかってくる、といった具体的なことを思い出せば、いかに生活に根付いているかを再確認できる。

「世間」の拒絶反応

 これが広く受け入れられてきたのは、「世間」に所属することでのメリットもあったから、長く続いてきたのだとも言えるのだけど、西欧にも中世には「世間」があったが、その後、「個人」を確立し、「社会」を構成することに成功した。それが「荒野のような自由」を感じさせる社会になったのだろうけど、日本は、社会を作ることに失敗し、ずっと「世間」しかなかった、と著者は述べている。

 そして、その「世間」が再び、強く意識されたのが、20世紀の末のことだという指摘も意外だったが、少し冷静に振り返れば、とても納得がいくのだった。

 とくに、九八年以降、新自由主義の台頭によって、「世間」が拒絶反応をおこした結果、保守化への逆転現象がおこった。「世間」の抑圧性がつよまっている(中略)同調圧力がますますつよまっているように思える。つまり日本の家族は、ますます「世間」のルールに縛られるようになっているといえる。

 いわゆる「新自由主義」が猛威を振るうようになったが、「世間」が健在で「強い個人」が実質上、存在しない日本では、それは無理で、「世間」が拒絶反応を起こし、そのせいで、かえって排除機能が強くなったと、著者は説明し、この視点で見ると、確かに色々な出来事への理解の解像度は高くなる。

 たとえ、SNSが根付いても、日本では、そこに「世間」が出来ているだけで、今でも、誰かが事件を起こすと、その家族が謝ることが「強要」される。昔は、匿名の手紙が殺到したのだろうが、今はネットで炎上する。形は違うのだけど、その内実は変わっていないことに気がつく。

 親の責任のとり方は、大正時代以降、現在にいたるまでほとんど変わっていない。「家」制度が廃止された戦後になっても、犯罪をおかした個人のみならず、「いえ」全体に拡大してゆく。「世間」が求めているのは、近代刑法の基本原理である個人責任・自己責任ではなく、江戸時代の連座責任・総座責任と同様の、「いえ」にまで拡大された集団責任である。

「世間」がなくならない日本と、「個人」が確立している「社会」の違い

 この著書の中で、具体的な例が紹介されているのだけど、そのことへの自分の気持ちの反応で、いかに「世間」のルールに縛られているのかが分かる部分がある。

 アメリカでは、たとえ子どもが犯罪をおかしたようなときでも、家族は子どもを守るのがあたり前だと考えられている。〈対幻想〉たる家族の「愛情原理」でもって、〈共同幻想〉たる社会に対決できるのだ。
 鈴木伸元が、アメリカであった興味深い事例を紹介している。

 それは、1998年のアメリカ、アーカンソーの高校での銃乱射事件のことだ。犯人の母親が顔出しをして、インタビューに答えたりもしている。そして、そこで全米から手紙が来た。段ボール2箱分。その手紙の内容は、全て励ましだった、ということだった。

 ここを読んでいる時に、その手紙の中に「非難」が入っていると思ってしまっていて、それこそが、自分自身も「世間のルール」を内面化しているのだと思って、ちょっとショックでもあった。

 そして、事件を起こしても家族を守る。それこそが、「個人」が確立し、「社会」がある世界なのだと示された気もするが、著者も指摘しているように、日本という国では、これからも「世間」がなくなる可能性はないのでは、と暗くもなった。

 ただ、まずは著者の言う通り、少しでも「世間」が見えるようになろうと思った。

 ここで大事なのは、家族をめぐる困難な問題で孤立したり、周りから非難されたりしたときに、ゼッタイに「自分が悪い」とは考えないことである。そういうと「自己チュー」とかなんとか批判されそうだが、気にすることはない。日本の大問題はたいがい「世間」に発しているから、それは「世間が悪い」にきまっているのだ。

 

 生きづらいと思う時、もしよかったら、自分を責める前に、まず読んで欲しい1冊です。



 この著者の他の本↑もオススメできると思います。「なぜ日本人は世間と寝たがるのか」と、内容は重なる部分もあるのですが、さらに「世間」への理解は深まると思います。

 この本↑は、対談を元にしています。他の記事でもオススメしたのですが、現在の「コロナ禍」のことも「世間のルール」のために、より苦しくなっているのではないか、と思えてきます。


 さらに「世間学」というものに興味が持てるのであれば、この「世間学」を創始した阿部謹也が編著をつとめた「世間学への招待」も、オススメできます。




(他にも、こうした記事を書いています↓。よろしかったら、読んでくださると、うれしいです)。



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