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「ブーム」は、どれだけ盛り上がっても、必ず去ってしまうことを再認識して、少し寂しくなった。

バッティングセンターについて書かれた本を読んだ。

バッティングセンター

 必ず1回は行ったことがあって、だけど、今も頻繁に行っているわけでもないのに、やけに身近に感じながら、いつでもあるような気がするのが「バッティングセンター」なのだけど、それが、こんなふうにいろいろな状況に影響されながら、2回もブームがあったことを、まずは、本当に知らなかった。

 よほど注意深いか、そのことに関心がない限りは、外に並ぶ行列などを見て「あ、流行っているんだ」とチラッと思うくらいなのだろうけど、当たり前だけど、当事者にとっては、人気という捉えどころのないものに、翻弄されているような気持ちなのかもしれない、と読んでいて思った。

 そして、2度のブームはあったものの、今は全体としては、減少傾向らしい。

総務省の調査によれば、1970年代には全国で約1500ヵ所あったバッティングセンターは、2006年の段階で半数以下になっていると発表されています。2021年現在、その数が減り続けていることは想像に難くありません。

「日本バッティングセンター考」

2回のブーム

1965年12月28日に、東京都墨田区にある総合娯楽施設「東京楽天地」ビルの屋上に開設された、「楽天地バッティングセンター」である。 「日本バッティングセンター考」より

「日本バッティングセンター考」

 その後に、第1次バッティングセンターブームが起こったらしいが、それは、人気を集める、という「人間が引き起こすけれど、人間にはコントロールできない現象」だったようだ。

 さらに、一度ブームになったものは、2度目のブームは起こりにくそうだけど、バッティングセンターは、それを可能にしたのだけど、関係者によれば、その原因が分かっていたらしい。

 第一次バッティングセンターブームが起きた後、ボウリングブームが訪れた。野球以上のすごい人気で、日本中にボウリング場ができてバッティングセンターからも客足は遠のいた。ところが1976年頃、人気が去ったボウリング場の経営者達が、ボウリングよりは設備投資のかからないバッティングセンターを、駐車場など敷地内の余っていたスペースに開設し始めた。こうして日本中で第2次バッティングセンターブームがやってきた。

「日本バッティングセンター考」

 確かに、ボーリングブームの盛り上がりと衰退によって、皮肉にも環境が準備されたのは事実のようだけれど、でも、バッティングセンターができたからといって、そこに人が集まるかどうかは別の問題だから、それは、野球というスポーツの持つ根強い人気に起因するのかもしれない、と思った。

ボウリングブーム

 この「日本バッティングセンター考」では、1970年代に起きたボウリングブームにも触れている。

 その人気を象徴する現象として、トップ女子プロボウラーの中山律子のことが挙げられている。

中山律子の人気は凄まじかった。整った顔立ちから〝和製ジャンヌ・ダルク〟という異名がつけられた彼女は、最盛期には週7本のレギュラー番組

「日本バッティングセンター考」

 他にも複数のCMに出演していたから、プロアスリートでありながら、人気タレントのような存在だった。

 だが、それも何年かで、誰が悪いわけでもないのに、ウソのように、そのブームは去っていく。

 その変化は不思議なくらいだった。

ブームの空気感

 このボウリングブームは、私も記憶にある。

 テレビでも、ボールがレーンの上を曲がりながらピンに近づいていくような映像や、中山律子というプロボウラーの姿を、やたらと目にしていたことも印象として残っている。

 それは、当時の「日常」でもあって、さらには、この「日常」はずっと続くのではないかと思わせるほどの空気感もあった。

 
 去ってしまった過去のブームを語るときに、さっき引用した部分のように、テレビ番組のレギュラーがどれだけあったか。どれだけの人を動員したか。そんな数字と共に語られて、それは、その時を知らない人に伝えるには、一つの有効な手段なのは間違いない。

 
 だけど、このボウリングブームの時に生まれていなくて、同じ時代の言ってみれば「参加者」でなかった人にとっては、そのことをいくら伝えても、おそらくはピンとこないはずだ。私自身も「参加者」ではなかったブームに関しては、何かを決定的に分かっていない感じがある。そのブームに関しては、自分とは無縁なのではないか、といった遠い感じが抜けない。

 何かのブームの時、それが大規模であればあるほど、「参加者」は増える。そして、そのブームに関する人やモノを見かける数が多くなる。その時、その出来事や人物は、ブームが盛り上がっている場合は、何かプラスアルファされて、違ったものに見えている。

 その関わり合いの濃度について差があるとはいっても、ブームの「参加者」であれば、その空気感といっていいものを体感するのが、ブームを知っている、ということで、それは、その時代に、その場所にいなければ、実感できないことだと思う。

 その時には、「日常」になっているから気がつかないくらいの、ちょっとした高揚感と共にあり、その「参加者」の高揚感自体もエネルギーとして、さらに盛り上がるのがブームだから、それは体験しないと分からないことなのだとも、改めて思う。

 だから、その当時の映像を見たとしても、その高揚感を共有できず、そのことを語る人の熱のようなものが、どこか理解できないことにも思えるのかもしれない。

 ただ、同時に、自分が体験したブームに関して、そのことを知らない人に伝えるときは、おそらく似たような疎外感を味合わせているに違いなく、でも、それは誰にとっても避け難いことだとも思う。

ブームの渦中にあること

「日本バッティングセンター考」の中では、大きな2回のブームの後でも、Jリーグ開幕におけるピンチだけでなく、その後の野球界のイチローの登場や、バラエティ番組の企画である「ストラックアウト」によるブームのことも描かれている。

 その際は、バッティングセンターで働く人が、トイレに行くことさえできなかったという回想もあるくらいで、この感覚は、いわゆる「売れっ子」になった芸能人が、あの頃は、とにかく眠かった、何をしているか分からなかった。さらに忙しい場合には、その当時の記憶がほとんどない、といった言葉を、時代も人も違うのに、ブームの渦中の人たちが、口を揃えて同じようなことを語るのを聞いてきた。

 どこで聞いたのか忘れてしまったのだけど、ダンディ坂野が誰かに語っていたらしい話を思い出す。

 「ゲッツ」というギャグで、ブームが起こり、それまでと違って、ものすごく人が集まり、これからやることが決まっているのに「ゲッツ」の一声で人の笑いと熱狂を生み出す渦中にダンディ坂野はいた。そのことについて「ゲッツってなんだろうね」と誰かに話したことが、笑い話の一つとして、どこかでダンディ氏以外の誰かが語っていたのだけど、これがブームの真ん中にいる人の率直な気持ちのような気がしていた。

 ブームは、自分で起こせない。

 どこか、外側で発生して、自分も巻き込まれるような感覚に近いのだろう。

 だから、意識してブームを持続するのは、ほぼ不可能だと思うし、思い上がらなくても、備えを完璧にしたとしても、決定的な下降によって致命的なダメージを受けることは避けられても、高揚感に包まれたブームの空気感を永続させるのは、人間にはできないのだと思う。

ストラックアウトブームの最大瞬間風速は確かにすごかったが、それは2度に渡るバッティングセンターブーム以上に一瞬の出来事だった。 

「日本バッティングセンター考」

 そして、急激に上がったブームは、急速に下がる。

 そこに生身の人間が巻き込まれたら、無事では済まないのも当然だと思う。

平家物語

 どんなブームも、必ず去っていく。
 そして、そのブームの凄さをいくら語っても、体験していない人には伝わりにくい。
 だけど、語り続けることをしないと、本当にただ消え去るしかない。

 アニメの平家物語は、色使いも、とても細やかに気が配られていて、その上で、美しい画面だった。海の上の船での戦闘場面は、初めて見たくらいの迫力とリアルさもあった。

 さらに、信じられないくらいの栄華を極めた一族が滅びていくまでの話を、コンパクトにまとめたものの、そんなに無理が感じられないような構成でもあり、何しろ、ずっと滅びの気配を感じていたのは、その結末を、視聴者も知っていたせいだと思う。

祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり
沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす

「平家物語」

 アニメでは、未来が見える目を持つ琵琶法師のびわが演奏する音が、いろいろな場面で響き、その度に、この「平家物語」の有名な冒頭を思い出し、ああ、本当にそうだ、と思い直す。

 諸行無常。

 全てのことは変わりゆき、ずっと変わらないものはない。

 そんな宇宙の法則とも言えるものから逃れられる人はいないし、永続的な出来事も存在しない。

 そんなことを描き出したアニメを見て、同時期に「バッティングセンター」の盛衰を記した書籍を読んだことで、諸行無常を強く感じ、なんだか勝手に寂しくなっていたのかもしれない。

日本経済ブーム

 バブル期と言われた1980年代後半、社会の隅で生きていた人間には、それほど実感がなくても、確かにその頃は経済的には絶頂期だったのだと思う。

 個人的には、その頃にフリーのライターになって、なんとか仕事があって、生活できたこと自体が、今から考えれば、バブルの恩恵だったと思う。

 夜遅くなってからの取材や打ち合わせの時、どうやって帰りのタクシーを捕まえられるかが課題で、だから、タクシーを手配することに長けた人は尊敬もされたが、それは経済的に恵まれていた時代の象徴の一つだったと、年月が経ってからだと気づくが、その渦中にいる時には、日常薄い高揚感に包まれていることにすら、気がついていなかった。

 それから、随分と時間がたつが、昭和の末頃の話をするときのトーンが、去ってしまったブームを語る時と似ている場合が多くなってきたような気がしている。

 ブームは、人間が起こすことはできなくて、そして、いったん去ってしまうと、再び、ブームが起こることは、滅多にない。

 それは、おそらく経済という大きな流れに関しても、例外ではないと思う。

驕れるものは久しからず

 バブルの頃は、日本経済ブームで、その時に、様々な根本的な工夫や改善などを、おそらくはきちんとしていなかったせいで、ブームが去るのは仕方ないとしても、その後、「失われた30年」と言われるような時代になってしまったのは、全くの他人事として語れないものの、やはり、「驕れるものは久しからず」なのかもしれない。

 バッティングセンターボウリングタピオカのように、すでに去ってしまったブームの移り変わりのことを考えると、どうしても、「日本経済ブーム」に触れなくていけなくなるから、より、淋しさも増してしまうし、経済をはじめとして、この社会状態では、去ってしまった様々なブームが再び起こること自体が難しい。

 といったことも、この30年で嫌というほど体感してしまっているから、すべての「ブームそのもの」から疎外感を覚え、社会全体が未来も含めてブームから無縁のように思えてしまい、より寂しくなるのかもしれない。




(他にもいろいろなことを書いています↓。よろしかったら、読んでもらえたら、うれしいです)。




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