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“あの日々”が語りかけてくるもの。

手術室で働いていた頃が夢に出てくることがある。

それは一年に1回か2回だけど、夢を見た朝には軽い驚きを感じる。
もう四半世紀も前のことなのに...と。
以前はもっと頻繁に見ていたけど、ここ10年くらいはほんの時たましか見なくなった。
それでも完全に消えることはない。
よほど深くあの日々は私の中に根付いているのだろう。

私が東京の総合病院で働き出したのは1997年だった。だから今でも“1997”という数字を見ると特別な気持ちになる。

新人ナースとして手術室に配属されるということも知らず、オリエンテーリングの初日を迎えた。ホールに集まった新人ナース一同が配属先の発表を緊張した面持ちで待っていた。

自分の名前が呼ばれ、続いて「配属先、オーアール」と聴こえた。

「ねぇ...オーアールってナニ?」

そっと隣に座っていた見知らぬ同期に尋ねた。

「手術室!」

この時の驚きはこの先も忘れないだろう。

ORに配属された新人は私を入れて6名。
うち2人は他の病院でそれぞれ1年、4年の経験があった。最年少は20歳のNちゃんで、私を含めた3人が同年齢で、早生まれの私は21歳になったばかりだった。

配属先のORは層の厚さでは院内随一で、当時の婦長・副婦長(まだ看護婦の時代だったため)の3名はOR一筋20年に手が届く先輩だった。

総合病院だったため、ほぼ全ての診療科(消化器外科、脳外科、心臓外科など)がありその全ての科の手術が行われていた。
学ぶべきことは山ほどあって、配属された日から死ぬほど勉強する日々が待っていた。

42歳で助産師の資格を取った時も苛烈な日々だったが、それでもあの手術室で勤務していた4年間ほど密度の濃い時間は無かったと思う。
まず解剖学から始まって、麻酔学を学ばなければならなかった。

ORナースの仕事は「外回り」と「手洗い(器械出し)」の2種類があって、外回りの時は麻酔科の補助、サポートをするため深く麻酔についての知識が必要になる。
手術に必要な麻酔方法が幾つもあるため、それぞれの麻酔機序と麻酔薬について、麻酔下の生体の反応を学び、実際に麻酔医と連携して手術が行われる前から働く。手術後も麻酔を覚まし、意識レベルが回復するまでリカバリールーム(回復室)で観察、記録し必要な看護処置をする。
実際の手術が2時間だとしたら、患者さんに付いている時間は前後約1時間を足して、4〜5時間に渡る。
そんな外回り業務は、意外にも実際にオペに付く手洗いナースよりも肉体的にはハードだ。
手術中の患者の肉体全体を麻酔医と守り、出血量のカウントや、手術で使われる止血ガーゼの数の管理も外回りナースの仕事になる。
そういう諸々の細かい手順を全て覚えて臨むには、手術手順を擦り切れるほど読み込んで頭に入れていないといけない。

手洗いナースは、その診療科、手術で使われる器具の名前、使い方、手術の流れに沿って使う器械の順番を知るために、外科医が読む手術書を読んで手術方法を学ぶ。それらはオペの流れの中で良いタイミングで手術器械や糸針(これも様々種類とサイズがある)を出すために絶対に必要な知識になる。
さらに同じ手術でも執刀医によって微妙に使う器具や糸針、手順が違うためドクター別の手順があってそれも熟知しておく必要がある。

ちなみにオペの手順は、その科の責任者でチャージナースと呼ばれるナース(3年目以降の中堅が数年ごとに任命される)によって作られ改編される。

覚えることは山積みで、最初の1〜2年は身が削られるような緊張感と勉強の日々だった。
さらに大変だったのは、医学英語が多用される病院だったため、チャート(カルテ)を読む時には医学英和辞典と格闘しながらだった。
手術名も全て英語で覚える必要があった。

6人の同期の中でも私はずば抜けて出来が悪く、また反抗的な新人(自分では普通にしているつもりだったが先輩からはそう見られていた)でもあったので、風当たりがもの凄く強かった。
同期は優秀か、またはひたむきで素直な子達だったので、私の出来なさぶりは顕著だった。

ひたすら足掻き、もがいた1年で帰宅しては泣く日々。職場のトイレやロッカー室の角でもよく泣いたし、オペ中も何度も叱られては涙を堪えて働いた。
精神的に病む一歩手前だったが、若さと、また支えてくれる人や同僚にも恵まれてなんとか乗り越えて行くことができた。

「夢はアフリカへ」だったので、ここでの経験は絶対に役に立つと信じられた。
あとは今ここで逃げたらほぼ確実に立ち直れなくなるという不退転(四面楚歌)の気持ちが大きかった。

できないままで終わった1年目の次はもう新しい新人が入って来るので、2年目にお尻に火がついた。同期の中で一番できない立場にはギリギリ甘んじられても新人に抜かれたら生きていけない....と切実に思った。

だからまずは手術後の部屋の掃除に誰よりも早く駆けつけて、一番避けられている雑用を率先してやるようにした。
怖いばかりと思っていた多くの先輩は、当たり前だがよく見ていて徐々に私への評価が変わっていった。風当たりが緩くなると、いつ怒られるかと萎縮しないで済むため、働きやすくなり失敗も減ったし前向きに働けるようになった。
苦手な緻密さを求められる仕事も何十回、何百回と体に叩き込む事でスムーズにできるようになった。
そのうちにあれ程苦手だと思っていた手洗いの整然とした手順仕事が楽しいと感じるようになった。麻酔医と一緒に円滑にオペが廻ることが面白いと思うようになった。
スポットライトが当たる職業に憧れた時もあったけど、そんな影の力が全体に与えるものの奥深さを知り “縁の下の力持ち”的な仕事の魅力を知った。

上:東京時代
下:世界の医師団(MDM)のカンボジア
形成外科プロジェクト(スマイル作戦)


そういう日々が私の4年間の記憶として今も脳内、いや体に深く刻まれている。

国境なき医師団でリベリア(西アフリカ)に派遣された時も、その経験はとても役に立った。
ドイツで研修をした時も同じだった。
新人時代、悪戦苦闘した医学英語も、元はラテン語由来なのでドイツの医療現場でも意外なほど役に立った。

今、9年ぶりに語学学校に通いドイツ語のブラッシュアップをしていて、来年早々くらいから働きたいと思っている。
看護師免許の書き換えは6年前に終えているので、いつからでも働けるが、この4年夫婦関係が壊れてしまってからある意味引きこもっていた。
時々思い出した様に細々勉強したこともあったけど、ドイツ語を話す意欲は低いままで、本音はドイツ語が嫌いだった。

ほんとうに薄皮を剥がすように徐々に目の前の霧が晴れてきて、そんな時に出逢ったある人から、

「あなたの声はドイツ語にとても合うと思うよ」

そう、言われた。
少し低めの自分の声をそんな風に捉えたことはなかったらとても驚いた。
実際にドイツ語コースの中でも一番きれいに発音ができている気がする。
元々ドイツ語はアルファベットに綴られたままを発音する言葉だ。私は英語が好きだし、フランス語にも憧れていたけどそこまで上手く発音はできないと知っている。

そうか...嫌いだって悪態ついてきたけど、私はドイツ語と相性が良いのかも...

と、すぐに調子に乗って木に登るブタさんになっている🐷

❄︎❄︎❄︎


真剣に“死ぬほど辛い”と思っていた時代を、まだ時々夢に見る。

ORで働いている夢を見るのが嬉しくなるなんて...あの頃の自分の所へ行って教えてあげたい。
きっと「それは絶対信じられない!」
って言うはずだ。

それでも、棲む場所がこんなに隔たっていても、私の心には“あの頃”が在る。
それはとても幸せなことなんだと、あの頃の全てが在ったことに、今ここで感謝している。

精一杯の日々はいつか時間の隔たりを越えて軽く、その背を撫でるように今を生きることを応援してくれるのだから...


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