誰かの説明書「日本文化と個性/一人称に潜む多様性~」

 「俺」という一人称を使うのが苦手だ。切り替えるタイミングがあったのだろうけど、乗り遅れた。「自分」か「僕」か「私」に落ち着いている。
 ふと思ったことだが、この国の一人称は多様であり、しかもそれを瞬時に日常的に使い分けている。まるで忍者のように、変化(へんげ)しているようだ。この移ろう事の容易さは、悪く言えば自身の曖昧さに繋がり、よく言えば団結する際の身軽さに繋がっているように思える。
 「明日は我が身」という言葉があるが、あれは色々な一人症(他者)をもちながら、最終的には「我」という確固たるものに、自己を集約出来る能力があるから生まれる思考なのだろう。これは、他者の気持ちが分かるというより、他者を自分の中で見つけることが出来るという感覚に近い。この延長線上に、「世界が賛美するこの国の品性」に繋がるのだろうが、これはまたあとで述べる事にしよう。なので、ある人の出来事は、数ある自分の中の1人なので、他人事(ひとごと)にしにくく、自分事(じぶんごと)にしやすい傾向にあるように思える。

 一人称を使い分けるというのは、キャラクターを使い分けると同義だ。これは、キャラクターを演じてみれば実感しやすい。仮に自分がこの世を支配しようとする魔王だとすると、自然災害が起きたら人助けにいくだろうか、いやむしろ好都合と捉えるだろう。また、一人称も少なくとも「ぼくちん」ではないだろう。
 このように、一人称・キャラクターには、行動に制限をする(決める)力がある。制限=ルールという言葉に置きかえるが、ルールというのは「することを定めるのではなくて、しない(してはならない)事を定めるもの」だ。これまで文脈で考えると、この多少息苦しいさを感じる制限のことを、我々は「個性」呼んでいるのではなかろうか?

 個性というのは、制限である。「個性的」という評価は、適切な言葉が見つからないけれど、ある程度のパターン化や、推測(次の行動の)ができるから言えることだろう。言葉にすると「この人は、こーいう行動をする。それ以上はしない」という感じだろうか。なので、個性的な人は言葉としては不思議だが、不安定のように見えるが、安心感がある。これは「プロ」という言葉を組み込むと、分かりやすいかもしれない。不安定なだけだと、その人は「プロ」にはならないだろう。
 この文脈で考えていくと、個性がない方が、かなり自由度が高いという気がしてきた。ただここで疑問なのは、安心感があるが個性を感じないモノが我々の日常にあるという事だ。例えば身近なところで、鉄道とかどうだろう?

 少しこれまでの話をまとめると、「個性がある=制限がある=安定している」「個性がない=自由度が高い=不安定」という事になる。ただ少し違和感がある。この国の個性という問題は、おそらく容姿、見栄えの良さという品性という面がかなり影響しているのではないだろうか。なので、上の最初の文言(個性が○○)を入れ替えてしまえば、思考しやすくなる。そして、品性を世界観という言葉で置き換えてみると面白い。
 例えば、絵本の中の世界観(品性)のなかにいる住人は、自分たちの事を個性的とは思わないだろう。現実に落とし込むと、よく世界からおもてなしについて賛美される事が多いが、自分たちはそれを当たり前の事だと思っている事が多いように。その文脈で考えると、この国は、登場人物ではなく、世界観が主体なのではないだろうか。そして、世界観を上手く作りこみ過ぎた結果、脱個性化したのではないだろうか?
 これ以上の考察は、陰謀論じみているのでここまでとする。ただ「どのようにして、この世界観をいつの間にか受け入れる事に成功したのか?」は、考えてみる価値はあるかもしれない。

  少し芸術のエッセンスを入れてみるが、そもそも日本の美というのは、引き算的な思考によって生まれている。例えば、枯山水を見ればよく分かるだろう。意図的に特徴を失う事によって、その余白を想像し、自分で育む。少し話が逸れるが、この国がエロ・変態文化に特化しているのは、そこの創造性が勝手に鍛えられているというのも関係していると思われる。重要なのは「いらないものを捨てるのではなく、いるものをあえて捨て、置き換える」という所だ。必要最低限でよいという合理的なコスパ主義とは少し事情が違う。いるものも捨てる事で、他国の文化の差別化(パクリに見えない)を図り、その部分を置き換える事まで出来たから、この国が文化を形成できたのだ。つまり、主要な特徴を失わせ置き換えて繁栄し、それを王道として受け入れてきた文化なので、そもそも特徴を嫌う傾向にあるのではないか。逆に言えば、特徴を許さないから、見えない部分を洗練させた技術・型(職人的な)が繁栄したのではないだろうか。

 街中に大きな建物もなければ、特徴のある見た目の人も少ない。我々の文化は、視覚的に面白くない。引き算的な美の代償として、見えない部分にしか本気になることしか許されないのだ。品性の代償ともいえる。これはこの国が、容姿や清潔感というモノにかなり緊張感を持っている事からも読み取れるし、インパクトの大きい事件を起こす人が案外普通な人という事からも読み取れる。「美とは我慢」とは言い得て妙である、何事にも代償が必要なのだ。
 
 ただ昨今別の傾向が出てきている。「鍛錬の結果、特別な結果が出れば多少は個性的でもよい」という公式が作られてきているように思える。(ただ、品性も一流である場合が多いが。)世界で活躍するスポーツ選手というのは良い傾向だと思う。なんでこの国はこんなにスポーツが原動力になるのかは正直分からないが、「日本」という括りが影響しているような気がする。普段は日本には興味はないが、最初の一人称による移ろいやすさにより、その時には「日本=私」という一人称になり、「日本の勝利=私の勝利」に結びつきやすいのだと思う。という意味で言うと、この国の教育の幼少期に行う「まず揃える」というやり方が、悪いようにも思えない。言い方が悪いが、後の全体的な行動する方針を決定するのに都合がよいという見方も出来る。

 先ほど述べたが、括りでなければいけない。1人((個人)が活躍では、この国を動かすのに弱いのだろう。日本は多神教というが、何か一つに依存する事を極端に嫌う。おそらく今までの考えで言うと、目立つものが単体・少数だと、特徴になるからだろう。なので、その目立つものを増やすことで、目立たないものになるにするか、グループ・チームという括りで、単体ではなくするが重要なのだろう。つまり、上手い事特徴を隠す「いやらしい加工」が必要なのだ。
 別の観点で言うと、昨今の「国民全体的な不幸」というのは、それと同等の効果をもたらすと思われる。この「危機感」が平和ボケには、良い薬になるだろう。

 ここまで考察を進めてきたが、一般的な単位に落として考えてみると、この国ではいい意味で「個性的ではなくても活躍できる」ことだろう。もっと言えば、「個性的ではない方がよい」ともいえてしまうが。見方によれば、とても楽な人生を送れる場所である。
 結論じみた事をいうと、我々は、世界を構築するのに向いていない、見えない所に忍んで戦うことに秀でているのだ。我々の文化で、漫画やアニメが発達しているのは、言いたい事が、加工しなければ言えないからだ。この特徴を別のモノに置き換えることのできる力は、利用のしがいがあるように思われる。常に「私」の中に、別の一人称の戦える自分を置き備える。そしていざという時に、戦えるようにする。それが、”個性をあえて捨てた人間たちの戦い方”なのだろう。このやり方を、この国の「生きづらさ」と捉えるか、「方法」と捉えるかは、あなた次第だろう。


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