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同志少女よ、敵を撃て 感想 この本の主人公は「少女」ではなく「戦争」である。間違いない、名作です。

読書にはまって評価の高い本をもう一冊。
これが処女作なのは正直天才やなーと思いました。
おもしろいですね。うん。その一言です。

感想を読むのがだるい人向けにざっくり一言でまとめたいんだけど、私が今までに読んだことがない種類の面白さで何とも形容しがたいけど、確かに面白いんですよ。

説明できないが、面白い。

それでも無理やりまとめるとすると。

淡々と、しかし無駄がないストーリー展開で飽きが来ないので最後まで一気に読ませる筆力がある。

何が面白いのか?と言われると

戦争の緊迫感・異常さ・人を狂わせる魔力。その恐ろしさを、直接的ではなく、物語のストーリー全体で迫るように表現していること。

主人公の心情の変化や、主人公の行動ではなく、

ドラマや映画のように、独ソ戦の動きと戦争描写でそれを伝えてくるところが新しく、そしてこの本の魅力。

つまり、シーン、シーン、場面、場面の、ストーリー展開によってメッセージを伝えてくるという新しさを私は感じました。

この本は、主人公セフィラマが明確に存在し、セフィラマ視点でずっと紡がれています。にもかかわらず、主人公を通してではなく、(つまり、主人公に感情移入させるような手法ではなく

私たち読者は、あくまで客観的な”読み手”としてこのストーリーを受け取るにもかかわらず、飽きさせず最後まで読まし続ける、淡々とした迫力があります。

まさに、主題となっている大国・ロシアのような迫力が。

概要

舞台は独ソ戦(第二次世界大戦)。
主人公はロシアの狙撃手の少女・セフィラマの属する狙撃手小隊をメインにして描かれる。
狙撃手になる経緯、狙撃手になるための訓練学校、そして実践(独ソ戦)。
一貫して戦争の禍々しさ・異常性・平時ではない恐ろしさ(魔力)について真に迫ってくる。

感想

非常に長い作品ですので、感想を一点に絞って述べたいと思います。
ハードカバー479ページに及ぶ超大作ですので、読書初心者には薦め難いのが惜しいところ。
また、独ソ戦舞台ということで(独ソ戦はロシアが戦場になる防衛戦)登場人物の名前・土地の名称・戦いの名称がカタカナで難しく、それも読むのを難解にしているといえます。
しかし、このようなビハインドを持ちながらも、そこまで難解な描写はなく突っかからずに読み終えられるというのは、間違いなく作者の筆力です。
「マチネの終わりに」とかの方が、私は読みにくかったなー。
私レベル中級の本です。短編集を読むのがやっと、というような読書初心者は100%読めませんが、ある程度長編が読める方なら、いけるんではないでしょうか。有川浩や東野圭吾レベルで容易な本ではないことは間違いないですが……。読書力アップのためにもお勧めしたいなー。

と、話は逸れましたが、戦争本だけども、この本はそこまでネガティブではないです。残酷な描写も少ないので、その点も安心していただけると思います。647はハッピーエンドしか許さない主義なので。

エンタメっていうのはね、楽しむためにあるから、気持ちが落ち込むエンターテインメントはそれはエンターテインメントではないんです。

で、感想行くと。

主人公セフィラマは出身だったちいさな村をドイツ軍にみなごろしにされ、唯一の生き残り。その時に母を殺したドイツ軍の狙撃手に必ず仕返しをすることを心に近い、助けてもらった狙撃の名手に優秀な狙撃手に育て上げられます。
「なんのために戦うか」と問われ、「女性のために」と答える。
これはアリがち。戦争では女性は捕まり、犯され、殺されるのが当たり前。「女性は虐げられる立場だ」というのがセフィラマは許せないのです。
そして女性だから狙撃手でも、舐められる現状に、セフィラマはその思いを強くしていきます。

同じような出自で狙撃手になった少女たちは同様に、「子供を守るため」などの理由がある。しかし、戦争の中で、敵の子供を助けようとしたり、子供を助けるために飛び出したせいで殺されたり…だいたい自分の信条に従って戦争のセオリーから外れた行動を起こすと死にます。

だけど、たとえ死んだとて、戦争で狙撃手で、淡々と敵のドイツ兵を殺していく少女たちには、大義名分が必要なのです。

同じ人間だが、「ドイツ兵は殺してもよい」その理由が必要なのです。
人殺しという倫理に反した行為をするための正当化が必要なのです。
それは誰でもない、自分の精神を守るためです。

戦争という、平時ではない異常な状況で、自分を保つために、狂わないために必要。だから優秀な元狙撃手であり教官のイリーナに、無意識のうちにそれを備えるように鍛えられるのです。

いくら狙撃の腕がよかろうが、精神がいかれたら、つかいものにならないですからね。

そしてセフィラマは自身の狙撃の腕に酔いそうになりながら、しかし葛藤し、戦争とは何か、と考えます。

ドイツ兵=敵=殺してもよい

そう単純に考えればいい、と平和な日本にいる私なら思う。
でも目の前で自分が打った弾で死んでいく人間がいて、そう思い続けることができるか。
自分の打った弾でもがき苦しむ敵兵の様子を見ても、単純な理由だけで、撃ち続けられるか。
ちょっと脳みそがある人間なら無理ですよね。
孤独な狙撃手が、自我を保つために必要なこと。

この答えって非常に難しい。
セフィラマが唱え続けた、虐げられる女性を救うため、だったら、この本は名作ではなかった。

さて、本題の一押しポイントに行きます。

セフィラマの故郷は皆殺しにされ壊滅させられるのですが、唯一、モスクワに出兵していたセフィラマの幼馴染であり婚約者に戦場で偶然にも再開します。この時すでにセフィラマは狙撃の名手となっています。
易しくて素敵な婚約者だったミーシカは、他のロシア兵と同じように敵の(捕らえた)ドイツ人女性を侮辱する兵士をかばうような発言をします。しかし「そうしないと仲間外れにされるから」といい、「自分は神に誓ってそんなことはしない」といいます。

しかし物語最後、ソ連が戦争に勝利し、ドイツ人女性を捕らえた時、ミーシカはその女性に馬乗りになります。そしてスコープからそれを確認したセフィラマは彼を撃ちます。

これはミーシカが下衆だった、という単純な話ではありません。

紳士で優しくまじめだったミーシカですら、いや、優しくまじめだからこそ、戦争という異常性に、魔力に負けてしまう。
それほどまでに、おかしく、恐ろしいものなのだ、と作者は伝えようとしていると私は読み取りました。

戦争は強く、一個体としての我々人間は弱いのだ、と。

同じ人間を殺す理由は、いかなる状況でも正当化できない。
だから、自分をだまし戦争に参加する。
自分をだましきれなくなったものから、狂っていく。
それは自分の精神を守るために、狂った方が楽だからそうなってしまう。

ミーシカは弱く、セフィラマは強かっただけなのです。

作者が言いたいのはミーシカが悪者だってことではないんです。
戦争の異常性なのです。

だからこの本、めちゃくちゃ面白いんだよね。

この本の主人公は、人間じゃなく戦争なんだよね。

歴戦の狙撃手は言います。
愛する人と趣味を見つけよ、と。
それは、戦争が終わって平時になっても、兵士は戦争の魔の手から逃げ続けなければならないからです。

異常が正常になったとき、自分の精神が置いて行かれないために。

戦争は、敵兵と、そして自身との戦いなのだなと思いました。

簡単に人殺しを割り切れるならば、そもそも、戦争なんておこらないはずですものね。

やっぱあれだなー。

大義名分も人のためだと思った方が作りやすい。
「女性のため」「子供のため」「家族のため」

自分の欲のため、では、精神に打ち勝てない。どこか罪悪感や後ろめたさを持ってしまうからです。

そして、戦争が終わって異常から正常になったときもまた、壊れないためには、「自分のため」ではなく「誰かのため」の方ががんばれるもんさ。

「人は一人では生きていけないのだから」

ふしぎの海のナディアじゃあないけれど、これに尽きるね。

あと、この本のタイトルのゴロの良さが私は好きです。

同志少女よ、敵を撃て

うん、発声したくなるゴロの良さですね。

敵っていうのは敵だった狙撃手でも、狂ってしまったミーシカでも、狙撃の名手となった自分自身でもない。

その素晴らしい圧倒的狙撃の手腕をもって

戦争を終わらせろ、そういう意味だと思います。

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