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知らない不安と、ピアスの穴

「ねえお母さん、お耳をパッチンするやつってさ……」

数日前のこと。さあ寝るぞという段階で、ベッドに入った娘が口をひらいた。なんだか少し不安げに、未知のものを尋ねる表情で、布団にもぐりながら私を見上げている。

ああ、ピアスのことをいっているのね。

最小限の単語で、情報が伝わるのが家族のふしぎだ。

「ピアスあけたいの?」

尋ねると、娘はちょっと泣きそうな感じで「う~ん……」と歯切れのわるい返事をした。

たぶん、興味はあるけれど、怖いのだろうなと思った。

住んでいるニュージーランドは、日本とは違い、5・6歳でもピアスを空ける子がいる。娘にきくと、仲良しのお友だちで二人ピアスをつけているという。

開けたいならピアスの穴をあければいいし、怖いなら無理して開ける必要はない。

そんな思いを込めて、「もう少し大きくなって、あけたくなったら開けたらいいよー」と話しかけると、娘はぐりぐりと頭を私の腕枕に押し付けて、そのうち眠ってしまった。

私の母は、ピアス反対派だった。近所の子が茶髪にしたら、「まあ…」と顔をしかめる。「そういう」価値観を持った年代といったら雑かもしれないけれど、ピアスや茶髪といったおしゃれに良い顔をしない人だった。

「親からもらった体に、傷をつけるなんて!」

どこかで聞いたようなセリフを口にする母。きっと、それ以外にピアスへの嫌悪感や不安をあらわす言葉が見つからなかったのだろう。見つけなかったのかもしれないけれど。

よく母が口にしたこの言葉、率直にいって私は大嫌い。ひかえめに言っても、卑怯だなと思う。

子どもの体は、その子のものだ。子どもが察知できない危険を教えるために、親がアドバイスすることはできても、その体をどうするか「決断の主体」をとりあげることはできない。

「ピアスなんて、感染症とか心配だわ」

とでも不安をあらわしてくれたならば、「病院で消毒してあけるから大丈夫だよ」と安心させられるのに。

ピアス反対派の親を持った私は、社会人で一人暮らしをはじめてこっそり開けた。それでも実家に帰省する際は、かならずピアスを外した。ピアスをみつけたときの、母の反応を想像すると頭が痛かったから。

つけたり外したりを繰り返し、うまくホールにならなかったピアスの穴は、いつしか埋まってしまった。

ピアス、ときくと、自立しても色濃く残る、親があたえる子どもへの巨大な力を想像してしまう。

「ピアス、開けたらいいよ」

もし、私が日本で暮らしていたら、娘の気持ちをすんなり受け止めれられただろうか。たぶん、もう少し難しい判断をせまられている気持ちを感じたんじゃないかな。

いまは、周りにピアスをする子がいるのが「普通」というだけで。校則でピアスが禁止されていたり、顔をしかめる大人がいないというだけで。

ピアスの一言で、親と子供、そして自分の立っている場所を観察する。

ピアスをつけている人を、画面越しでしかみたことがない。自分も体験したことがない。そうだったら、「そんなもの、ダメです!」と娘の要望を一蹴する可能性だってある。それは、ピアスに限った話ではない。

知らないものは、怖い。でも、知らないことで生じる不安に自分が負けている認識を持っておきたい。不安を子どもにぶつけなくてすむように。

どこにいたって、子どもの好きなものは好きという気持ちを、大切にしたいよなあ。


もし、娘がピアスをあけたいと言ったら。私も一緒にあけようかな。お揃いの色の石をつけて、きれいだねって見せ合いっこしようと思うんだ。

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