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<資料「JSTOR Daily」より「性的少数者の解放より目先の結婚機会の平等へすり替えられたワケ」>==どうして日本人は白黒思考の議論しか応酬できないんだろう?民主的議論を混乱と見なしたら権力者の思う「壺」!==

この記事は、オンラインデータベース「JSTOR」に掲載されている、アメリカの同性婚運動に関する論考だ。
2015年といえば、渋谷区でパートナーシップ条例が始まる年である。暗がりでコソコソと同性愛者であることを確認しあう「ハッテン」という秘密の儀式の時代から、手を繋いで歩ける社会、恋人との生活を差別や不当な扱いを受けずに過ごせる社会、を目指した画期的な一歩でもあった。

そのことを祝福するのと引き換えに、どうしてか、トイレ問題、共同浴場問題にすりかえて大騒ぎが始まった。銭湯業界がここまで壊滅的に減っているぐらい個別入浴が主流になっているときになにが入浴の恐怖だろうか、である。とりわけ少なくともここまでの間に、何人が女風呂に私は女性だと男性の体で侵入して狼藉を働くようなマネをしているだろうか。むしろ、女性以上に女性らしくふるまっているトランス女性たちである。外見とのギャップに苦しむ人たちはむしろ人目に触れる生活さえ恐怖になっているぐらいトラウマと共に生きているというのに。そのトラウマ体験を植え付けた男性や女性たちの前でだれが裸になって入浴などできようか、である。
GAYたちでさえ、トイレで大便をすることだって恥ずかしかったり、上から「チンコついているのか」と覗かれたりする中で必死に耐え、教師に訴えたとしても「何を女々しいこといって。おちんちんとっちまえ」とまったくトンチンカンな答えをされ、誰にも相談できない状態になり、「あたしより女らしいことが気に喰わない」「気持ち悪い」と言いふらし、「女の方がいいにきまっているわよ、ねえ?」と男子を脅して侍らせた地獄のような教室に毎日公立高校受験のための「内申表」のためだけに通い続けねばならない日々をマジョリティの側は何にも感じ取ることはできないだろう。
「心と体がアンバランスな」(山東議員)とキチガイ扱いするのは自由だが、そういう状況に追い詰めている人たちはあなた方マジョリティの側出し、ミソジニーをいう前に相手のトラウマ体験へ配慮する責任もあろうというものだ。トラウマを与えて得たはずの女性の立場と地位と居場所はいとも簡単に性暴力の檻となったではないか。それを見て見ぬふりしてなにがトラウマだと申し上げたい。


同性婚運動が白人至上主義に乗っかり性的マイノリティ固有の社会運動に仕立てられたことで、いわずもがなの前提である女性解放がなければ人種や性の差別解消やスティグマの除去から平等へという市民連帯の歴史から分断に利用されていることへ警鐘。2015年アメリカの論考。

SDGsを含め、ジェンダー平等の前提は女性の解放と自由、男性中心社会からの人権の奪還がまずなければ、男女という2つの記号に縛られたままのジェンダースペクトラムの理解にまで行き着かない。大前提をただちに目先の前提にはできないからだ。
自明のことは省略に従うのは世界共通なはずだが自明である事すら追いついていない教養のベースでは、欧米で考察されているステージで議論ができないのは当たり前である。それを「女性スペースの会」をはじめとするヘイト団体は狡猾に利用し、あたかも女性の自立のために場所を作ってやったような口ぶりをして見せる。与えられた居場所は借り物。

相手に自業自得と言う以前に自分が作らなかった居場所は居る事さえ維持できないわけで。その限り自業自得(自分で行動して得た結果は自分で引き受ける)という事で言えば女性の居場所なんて最初からできるわけがないのである。そのことは畢竟、あらゆる不平等や抑圧で苦しんでいる人たちを抜きに
自己憐憫に酔っているだけで周囲への抑圧と絶望を植え続けるという役割以外はたしていない、ということになるのである。

文献を読んでいないとパワーゲーマーが応酬し合っているが、そもそも欧米で「混乱」は起きていない。民主主義社会の中で議論の応酬やデモ行進などのアピールは日常茶飯事だからだ。それらを混乱や暴動のように捲るのが警察国家的な「安定」「静寂」ばかり求める権力者の狙い目。欺されてはいけないのである。あれを混乱だとしか捕らえられない神経だから抑圧と静かな議論との見分けもつけられなくなるし、白黒思考、All or Nothingの議論しかできなくなる。そんな帰納主義的な議論が生産性のないもので人々を分断するしかないものだと100も承知なはずではないか。

すべての立場の人が分け隔て無く、かつ、不当な扱いを受けたら不当だと臆せず言える事。傷つけたことを認めて謝罪し新しい関係構築のために無神経・無配慮だった過去を手放すこと。既得権益を点検して開放すること。それが民主主義のプロセスの中で必要不可欠な議論や考察まで取り上げられたら科学も祈りもなくなるのだ。



============「JSTOR Daily」の参考邦訳(byGoogle翻訳)
同性愛者の解放から結婚の平等へ

ある学者は、LGBT運動がかつての過激なビジョンを犠牲にして、どのようにして限られた人々の権利を推進することに焦点を当てるようになったのかを説明しています。


 多くの社会運動と同様、同性愛者の解放も最初は過激な土壌に根を下ろしました。たとえば、マッタシン協会の創設メンバーの中には共産主義者もいた。彼らはマッカーシー時代に、グループがその擁護において世間体を高める方向に進むにつれ、粛清されることになる。1960 年代初頭のサンフランシスコでは、シチズンズ アラートやバンガードなどの組織が 警察の暴力とジェントリフィケーションを抑制しようとしました。ニューヨークでは、  1969 年のストーンウォール暴動は トランスジェンダーの人々によって主導されました。1980 年代後半、ACT UP はエイズに対する国民の無遠慮な取り組みに直接行動で応えました。

 学者のコリン・P・アシュリーは、この過激な過去が歴史的記憶喪失の犠牲者になるべきではないと書いている。「記憶喪失には、1950年代のゲイ団体が当初、社会革命によるゲイの解放を構想していたという事実を思い出せないことが含まれている」とアシュリーは主張する。「特に1960年代と1970年代のLGBT/Q抗議運動は他の社会と密接に結びついていた」公民権や女性の権利、反戦、貧しい人々の闘いなどの運動です。」

政府の無策は、特にACT UPによる急進的な組織化の新たな波を引き起こした。

 アシュリーは、1960 年代後半のシカゴ・ゲイ解放戦線 (GLF) のメンバーの次のような言葉を引用しています。毎日犠牲になっている同性愛者たち。」実際、GLF はベトナム民族解放戦線を模倣して命名されました。
急進主義のエネルギーが運動から完全に消え去ることはなかったが、レズビアンやゲイの人々が主流の中に小さなスペースを見つけたり、国家的擁護団体が成功の停滞を経験したりするにつれて、多少は消失した。(例えば、ゲイ活動家同盟は全国ゲイ・レズビアン特別委員会に姿を変えた。)アシュリーによれば、エイズの惨状には当初「ただ生き残る」戦術に重点を置く必要があったが、政府の無策が新たな波を引き起こしたという。特にACT UPによる急進的な組織化。

 アシュリーの観点から見ると、その後の 1990 年代の主流の同性愛者の権利団体による「結婚平等戦略」への移行は、 保守派または中流階級の運動でした。このような主流化は、結婚の平等という単一の目標を掲げた「強制的同性愛性」という同性愛の画一的な定義を広めた。アシュリーも指摘しているように、結婚を推進する階層的に組織された擁護団体は、銀行や軍事請負業者からさえ資金提供を受けており、60年代には忌まわしい政治的同盟だった。

 過去20年ほどにわたる同性愛者の権利の主流化は主に中流階級と上流階級の白人の間で起こった現象だが、これらの人々はLGBTQ人口の大多数ではないとアシュリー氏は主張する。中流階級の結婚軌道から取り残されているのは、「労働者階級と貧困層の同性愛者、性別不適合の同性愛者、有色人種の同性愛者」です。多くの人にとって、極度に不平等な社会における経済的不安定と、国家および非国家主体による暴力は依然として死活問題である。権利の勝利は不平等に分配されてきました。

 アシュリーは、「結婚の平等をめぐる闘争の狭さ、そして単に受け入れられるかどうかを争う中産階級のほとんどが白人の闘争であるという自己描写により、Black Lives Matter や The Fight for $15 のような運動と連帯する機会が失われている」と主張する。 「部分的な利益から最も利益を得る人々は、連立パートナーだけでなく運動全体にも利益をもたらす、より大きな集団的利益を支持する推進力が少ない」。
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原典情報:
Gay Liberation: How a Once Radical Movement Got Married and Settled Down
By: Colin P. Ashley
New Labor Forum, Vol. 24, No. 3 (Fall 2015), pp. 28-32
Sage Publications, Inc.

記事本文はJSTOR DailyのGoogle翻訳。原文リンクは下記。

https://daily.jstor.org/from-gay-liberation-to-marriage-equality/?utm_campaign=generalmarketing&utm_content=facebook,twitter&utm_medium=social&utm_source=facebook,twitter

渋谷区パートナーシップ条例
=>分け隔てのない長谷部区長のもと若いエネルギーを尊重した区政の英断でできあがった最初の条令。

世田谷区 パートナーシップ・ファミリーシップ宣誓
=>上川あや議員はじめ区民の広い層と区議会の議論が制度そのものの厚みを作りあげて行っている好例。


東京都パートナーシップ宣誓制度
=>自治体発で最も後発でもっともゆるやかな条令。ただし改正条項と運用に向けた方針が都職員の福利厚生政策にも反映させるための条令だということも明確に示しているところ。公務員側からジェンダーの平等についてを作っていこうという面、そしてもう一つは「片方だけマイノリティであればパートナー登録可能」であることで、「同性婚」とは違うトランスジェンダーの恋愛にも可能性を広げてくれているところが大きな可能性を持っている。



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