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モノサシからはみ出した線~ものごとの本質は「見えているものの裏側」にある

立ち枯れた一本の梅の木の枝に咲いた、小さな白い花


あれは確か、私がまだ小学校の低学年くらいの頃だったと思います。

毎日通っていた通学路の脇の荒れ果てた畑から、一本の古い木の枝がにょきっとはみ出していました。
それはほとんど花も実も付かないほど立ち枯れてしまっていた、梅の木の古株でした。

毎日そこを通るたびに私は、その木の先っぽについた小さな花の芽が日に日にふくらんで、今にも咲きそうになる様子を見ていました。


梅の花の一枝


まだまだ寒さ厳しい早春のある日、とうとうそのつぼみは小さな白い花を咲かせました。

学校の帰り道、可愛らしいその花を見つけた私は、自分で枝を手折って家に持って帰りました。

その頃、母が体調を崩して家で寝込んでいたので
「花が咲いたよ!春はもう近いよ」
――そんな、母への励ましのメッセージのつもりでした。


母はとても喜んでくれ、その一枝はキッチンの隅に飾られました。
当時の私は子供なりに、枯れ果てたような姿からも芽吹く梅の花から生命の息吹の美しさ、たくましさを感じていたのだと思います。

春の足音を感じた喜びが一転、犯人のような扱いを受けてしまった日


翌日、小学校の「帰りの会」で、私は手を挙げたクラスメイトから激しく糾弾されてしまいました。(帰りの会には、その日一日をふり返る反省会のようなコーナーがありました)

「昨日、夕貴さんは学校の帰り道に梅の木を折っていました。どうしてそんなことをするんですか!」

このとき感じたショックはかなり大きく、私は至福の絶頂から一気に地面に叩き付けられてしまったような気がしました。

今となっては、その帰りの会のときの展開をあまり詳しくは覚えていないのですが、
「この行動を良いと思うか、悪いと思うか」クラス全員が手を挙げて決めるというような、一種の裁決めいた流れだったような気がします。

もちろん弁明はしたと思うのですが、子供なりの正義がまかり通る年頃のこと。
「公共のものや自然物を破損させる行為」などが認められるはずもなく、私はすっかりクラス全員から責められる立場になってしまったのでした。


教室風景


自分のものでもない木を折った……確かに、それは良いことではないかもしれません。
でも、「なぜそうしたのか」と問い詰めるその問いかけは、
「なぜ」の部分を聞き出してこちらの気持ちを理解するためではなく、批難をするための有無を言わさぬ圧力、としての言葉でしかありませんでした。

母を喜ばせたかった。春の訪れが嬉しかった。
ただ、それだけのことだったのに……決して悪意で木を傷つけた訳ではなく。

正しさの基準は道徳的な決めつけがほとんど。心への配慮はそこにはない


その当時、私が住んでいたのはかなり因習深い地方の町で、お昼寝をせずおしゃべりしている子供の口にガムテープを張りつけ、黙らせるという保育士(当時は保母と言いました)が普通に存在していたような土地柄でした。

だから当然、例の帰りの会のときに「先生に理解された」という記憶も私の中には残っていません。



「人ってこんなにも考え方が違うものなんだ……」
そう思ったのは、これが人生で一番最初だったかもしれません。

こうして大勢の意識が一定の方向に集まると、そこにはとても強いエネルギーが生み出されます。

クラスのみんなによって悪者認定を受けてしまった私は、それ以来、すっかり “変な子” というレッテルを貼られてしまいました。


挨拶運動看板


正しいか正しくないか、という基準は道徳的な目線で見る場合がほとんどで、その多くが教育的思想に染まったモノサシで測られたものなのではないか、と思います。

そこには「何を思ってそうしたのか、そうせざるを得なかったのか」
――そんな、こころへの配慮が欠けているように感じられてしまってなりません。

私の行動を最初にとがめたクラスメイトは、きっと周囲の大人たちから「良い子」であることを強く求められていたのでしょう。

そうやって先生やクラスのみんなに報告することで、大人のいいつけを守っている自分自身を、無意識に認めてほしかったのだと思います。

大人になると忘れてしまう、子供だった頃の純粋な気持ち


また、こんなこともありました。

小さい頃、家にあった一冊のアルバムをめくったら、私たち姉妹の写真がきれいにまあるく切り抜かれて貼ってありました。

母が子供たちを愛おしんで丁寧に写真に手をかけている様子が感じられ、幼い私はすっかり嬉しくなってしまいました。

そして、アルバムにまだ貼らずに挟まっていた数枚の写真を全部、母がしたように、まあるくハサミで切りぬいてしまったのです。

私としては、母のお手伝いと同時に、母と同じような愛情表現をしたつもりでした。
でも……それを見た母は私を叱りました。
「どうしてこんなことしたの!!」


シャボン玉で遊ぶ子供


その当時はまだ写真はフィルム式で、今のようなデータ保存形式ではなく、気軽に撮ったり消したりできるような手軽さもなかった時代でした。

ですから母が叱ったことも、仕方がない成り行きだったとは思うのですが、悪戯いたずら をしたと思われてしまったのは、とても悲しかった。

これは小さな私の精一杯の、母に対する愛情表現だったのですから。

子供はときに、大人の想像の範囲を大きく超えるような行動をすることがあります。
大人の目から見たら、それは規律をはみ出した悪しき行為に映るのかもしれません。

そして、その規律を「教育的配慮」の名の元に子供たちに教え込むからこそ、私たちは片面のみに焦点を当てたものの見方しかできなくなってしまうのかもしれませんね。



ものごとの正邪を判定し、裁いてしまう風潮――ごく当たり前のように身の周りにあるその情景。

ではなぜ、あなたはそれを裁けるのですか?
あなたのルールが絶対に正しいことを、どうして確信できるのですか?

「ものごとの本質」は、見えているものの裏側にあるのかもしれない


誰にもみんな、子供の頃は必ずあったのです。
目に映るものすべてが珍しく、新鮮な好奇心に満ちていたあの頃。
ただ純粋に誰かを喜ばせたくて、大好きなものを素直に大好きだと言えたあの頃……。

私たちは時々、そんな原点に立ち返ってみることも必要なのかもしれませんね。


子育て中の日々の中にも、それから大人である私たちの周囲の人間関係の中にも。

「この子(この人)は、一体何を思ってこういうことをしたんだろう」と、ほんの少し立ち止まって考えてみると、不必要な裁きも減るのになあ……なーんて思うのです(笑)


私達の、染みついた規範の目で見えているものの反対側に、もしかしたら「ものごとの真実や本質」がありありと姿を現している、なんてこともあるんじゃないかなあと思うのです。

(この投稿は別ブログの記事を転記したものです。ブログだとどうしても埋もれてしまうため、もっと大勢の方に読んで頂きたくてこちらに再掲しました)

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