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大麻と出会い、人生詰む。

私がドラッグを使い始めたのは、風俗(ピンクサロン)で働き始めてから出会い系サイトで知り合って交際を始めた男に大麻を勧められてからだった。その男は仮に「カニ」と呼ぶ。
当時の私は19歳。携帯デバイスもガラケーの時代。出会い系サイトも「エムコミュ」という昔のサイト。やっとパケホーダイが浸透した頃のサービス。
カニは交際を始めて3ヶ月目くらいに
「俺と付き合うならこれを覚えてほしい」
と唐突に言い、細い大麻のジョイントをちらつかせた。

私は一度は抵抗を示したものの、翌日には自らビッグバン(初めてのドラッグ経験)を迎えた。
私が大麻を使った理由は
当時、大学生の自分が置かれた環境にあったと思う。

ウチの母親はとても厳しい人だった、父親は文化人で家庭よりも仕事を優先していた。
その頃描いた理想の豊かな自分は、よじれた家に関わることなく独立して、自分の自由意志で好きな時に好きなことが出来る自立した生活をしている自分。
一方で現実の自分は、家に縛られやりたい時にやりたいことが出来ず、叱られ命令され暴力喧嘩をして、家出を繰り返していた。異性関係には口出しされ、何でもコントロールされるのが嫌で本当の自分を偽り嘘をつき続ける。嘘をつきすぎて自分のついた嘘を忘れる。思春期に十分な金銭は与えられなかった。
だからか、私は、詐欺で始めさせられた風俗を辞められずにいた。

大麻は手軽に全ての嫌なことを忘れさせてくれるツールになった。
初めての大麻経験は正直あまり鮮明に記憶していない。
ただ、世界が急に輝き出して私も沢山笑っていた気がする。
今まで連続して続いた陰気臭い現実が嘘のように、何でも出来て何にでもなれる。そんな精神の自由を一瞬で手に入れられた。檻に閉じ込められたエゴが解き放たれ、脳内が自由帳みたいになる。学校に例えるなら、日常が眠い授業時間なら、大麻を使っている時間は休み時間。
大麻はそういうおもちゃ。だけど私はおもちゃに夢中になってしまった。
それほど現実が辛かった。
おもちゃに依存した。体は大人でも心が子供だったから、そうでもしなければ現実が辛すぎた。
人は理性を育てながら大人になっていく。理性が育てば現実をおもちゃにして生きられる力を身につけることが出来る。
大麻で遊ぶのが楽しいのは子供。
現実を遊びと感じるのは大人。
大人は授業に興味を示して知識を取り込み自らの力で考え、行動する力を休み時間中も育てる。
子供は休み時間を心待ちにして授業という現実を楽しめない。

カニは七歳年上だったがまだまだガキだった。
昔アメリカで覚醒剤を自力で止めたことが彼の自信になっていた。
覚醒剤はやめても大麻は逃げ道として残しているタイプ。
私は差し出された初めての大麻からドラッグの世界に魅せられて、更に自ら色々な種類の薬物に手を出すようになっていた。
美大に通い、絵が砦だったから、想像力の拡張されるドラッグを使っては絵を描いた。
大麻に飽きたらなかったのは、好奇心と「他のドラッグを使ったらどんな絵が描けるのだろう」という興味からだった。
それから十年間はおもちゃに夢中になった。

現実世界はどんどん酷くなった。
精神病院の閉鎖病棟で過ごした期間はトータルで2年は超えている。
隔離室にも相当いた。電気ショック療法を受けて、植物人間になり、入院先の病院の常連になり、看護師と親しくなり、暴れたら鎮静剤を注射され、頭のおかしかった私は隔離室の窓からUFOを探し続けた。病院の治療のおかげで一時的に脳の電気信号が回復しても、退院すればまた辛い現実にぶち当たってドラッグに手を出した。
家族関係はドラッグに手を出す以前よりも悪くなった。
ハーブや大麻や覚醒剤を使っていることは徐々にバレた。
バレたから更に家の拘束は厳しくなる。それでも自己資金がないから実家は出られない。
美大に行ったスキルで、隠れて路上の公共物に落書きをし始めた。
暇つぶしに東京中を落書きをして歩いた。家の近所に書いていたら母親に「いいかげん馬鹿の一つ覚えはやめて」と泣かれた。
落書き仲間とドラッグを使う時間は放課後の部活みたいだった。
私は超不良とつるんだ。
なのに家に帰ったら家族の顔色を伺った。
そんな自分が情けなかった。
もっと不良の家に生まれればよかった。
であればずっと不良できたのに。

幼稚園生の頃、何度も見た夢がある。
父・母・弟が白鳥になって寝室の窓から飛び去っていくが、私は金縛りに遭い人間のままその部屋に取り残された。

そんな生活だった。家族はまともだった。私だけがクレイジーだった。
薬物を使い、体を売り、落書きをして、精神病院にばかり行く、お金のかかる安心できない長女。

時々考える。
彼らは不良じゃないが
よく私と関わり続けてくれたなと。


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