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未だ曾て有らず

「管制塔から小比叡船長へ。気分はどうだ?」
「まあ、ボチボチです」
「おまえはいつだってボチボチだな」
 最近ではこれと言って話すこともなく、俺と社長は同じ話題を繰り返すばかり。入社初日に寝坊してきたこと。焼肉ランチの野菜は焼き加減が分からないこと。学問とは近視眼的に目の前のものを実現しようということとは縁の違う世界に存ること。親父は逆上がりができないくせに息子の鉄棒に厳しいこと。
 今日は何を繰り返そうか。
「あれは入社初日じゃなくって、入社前のオリエンテーションでしたよ」
「俺が電話した時、おまえ、まだ寝てたよな」
「あれはマジで焦りました。クビになるかと思った」
 息を切らせて会場の扉を押し開けたのには、最善を尽くした俺なりの演出だった。
「やっとのお出ましだ」
 肩で息する大根役者を目にした社長は手を叩いて満面の笑みを浮かべた。あの時から俺はこの人に魅了され、そして、両手に手錠がされていた。
 時は就職氷河期、吹雪に晒されながら就職エージェントのサイトに五〇社以上はエントリーした。無目的に学業を重ねてきた俺に就きたい職などない。三流大学で会得した理学系の知識をつなぎ合わせて、どうにか志望理由を作文した。面接まで進んだ数は片手で足りる。最終選考までこぎつけたのは、このベンチャー企業、スターダストだけだった。
「何か見えるか?」
 太陽系から飛び出した宇宙舟、灯りを消せば星空だけは美しい。そんなもの煌々と灯りの照る街から離れれば地上からだって拝むことはできる。大気圏を抜け出したところでダイナミックな車輪銀河が拝めるわけもない。不均一ながら単調な空間が広がるのみ。社長の問いかけに気の利いた言葉を見つけることができず、口を歪めて首を傾げた。
「もう一段階加速してみようか」
 一労働者は社長の提案を飲み込む。シートベルトを締めて、ボタン一つで原子炉に燃料を投入する。加速の衝撃を全身に受けながらしばらく目を閉じれば、地球時間を示す時計がまた少し加速した。

 たった一度の人生、もっと笑って楽しむべきだという意見も分からないでない。これでも俺なりに楽しんでいるんだよ。震える口角をなんとかして持ち上げる。お陰で寄り付く人間は少なかった。
 人生で一番苦痛だったのは一〇歳になろうかという冬の季節。氷のように冷たい鉄棒を握ってつばめの格好で揺れていた。親父は前回りの出来ない俺が気に入らなかった。親父は逆上がりができなかったと聞く。そんな程度のコンプレックスが男を卑屈にさせる。逆上がりは技術の問題だが、前回りは勇気の問題だという。一本の棒を握って頭っから地面に突っ込んでいくのだ。高さは違えどバンジージャンプと変わりないじゃない。
 親父のお陰というべきか。前回りはできるようになる。鉄の棒を軸にしてはじめて世界を一回りした日、それはそれは興奮した。親父も喜んだ。一度できれば何度だってできる。多少の恐怖は快楽に変わり、氷のようだった鉄棒が溶けるほど回転し続けた。そいつは直ぐに飽きる。逆上がりがはじめてできたのは、上空一〇〇キロメートルのカーマラインを越えてからだった。
 英検準二級に受験に就活、俺が躓きそうになる度、親父はあの日のことを美談として取り上げた。
「鉄棒のことを思い出せ。頑張ればなんだってできる」
 そして、決め台詞。
「あとは勇気の問題だ」
 なんとか職を見つけて家を出てから、俺は親父の間違いを証明するために活きている。抗い方は単純なほうがいい。なんの取り柄もない者でありたい。自堕落に生きたい。そのためにも金が要るのだから困った社会だ。自堕落を追求した結果、万年平社員でも飯に困らぬ生活が送れている。本当に抗えているのか分からない。
 大学発ベンチャー企業スターダスト。欲望の使い道を失った一パーセントの人間を相手にした宇宙遊泳事業。やつらの散財と自己顕示欲が主な収入源である。それは資金調達の話で、真の目的はいつだって学問にある。
「宇宙の果ては。世界のはじまりは。考えただけでワクワクするだろう」
 中長期的な宇宙拓殖事業と看板を掲げておけば社会的価値が認められる。富豪を宇宙へ送って一般メディアへ成果を垂れ流せば宣伝効果も抜群だ。そして、スターダスト社長兼教授は言葉をつなぐ。
「何のためにというのは正直あんまり考えたくないんだよ。学問なんてそれぞれ固有の法則で廻っている。ある専門分野にとり憑かれると、そいつがどんどん生活を浸食していく。二四時間戦わざるを得なくなる。そいつが学問ってもんだ」
 俺は関心のないふりでその言葉を焼き付けた。

「気分はどうだ?」
 社長が俺に声をかける時、昔からそいつが決まり文句だった。どこかズレているようにも思えた。
「ボチボチやってます」
 そう答える自分も何か違っていた。

 民間人による原子力投資が活発になった頃、社長は言った。
「原子炉ロケットの有人飛行を試してみたいと思っている」
 資本の増大がなによりとされるこのシステムの中で如何に踊り続けるか。社長は用意されたお立ち台にひょいと飛び乗る。核廃棄物は月に棄てて、金持ちから順に火星へ移住する。真っ赤な彼の地にシェルターを建てて街をつくる国家プロジェクトがあるという。それならば砂漠の真ん中に拵えればどうだ。
 夢のような話でなければならない。ニンゲンどもがこの地上でいつまで生存を続けられるか。毎年のように未曽有の災害が猛威を振るう。でも、北の大地で米がとれるようになったじゃない。宇宙開発は豊かな地上生活にも役立つのです。デュアル開発だなんて煙に巻いて予算を引っ張る。
 社会の注目を集めることに成功した社長にとって、予算を集めることはそれほど難しいことではない。あとは適切なモルモットが必要だった。四〇歳を過ぎても結婚の気配がない。ジェンダー平等が訴えられる中、最も厚待遇だと信じられているおじさんという選択肢は何かと都合がいい。

 宇宙を進むだけの俺にできることと言えば、時折現れる小惑星をスケッチすること。そして、過去について思い返すこと。
 ヤングケアラーと呼ばれていた菊池がいた。あいつには肩書があって、何者でもない俺には羨ましかった。それでも学級委員長になりたいと思ったことはない。サッカー部のキャプテンなんてなりたくてもなれない。俺にとって、キャプテンと同じくらいにヤングケアラーという横文字が響いた。
 その理解を進めるため、学校教育が必要だとテレビが言った。菊池に体験談でも話してもらうか。身動きの取れなくなったブヨブヨの母ちゃんにTシャツを着せる話。冷え切った肉の感触、湿ったTシャツの臭い。だれも聞きたくない。
 菊池は俺にとって数少ない友達だった。ヤングケアラーは忙しい。放課後に遊ぶことはできないから、昼休み、あれほど嫌いだった鉄棒にぶら下がった。そして、クラスの人気者グループがボールを追いかける姿を眺めた。運動ができるやつと、喋りが面白いやつの集合体。そこにはキャプテンもいた。ぶっちぎりでサッカーが上手かった。翔真君をかわして、ユベシを股抜きして、バッチを飛び越えて、デブだからゴールキーパーの児嶋なんていなかったかのようにネットを揺らす。
「おおっ」
 菊池は鉄棒にぶら下がったまま身体を反らす。本当はキャプテンたちとサッカーがしたいのだろう。なんで俺と鉄棒にぶら下がっているのだろう。
「おおっ」
 もう一人ぶら下がっているのがいた。須藤幸子。女子でさ。ちっこくてさ。丸くてさ。特別魅力的ではないけれど、菊池に取られるくらいならば、俺が結婚してやってもいいなって思っていた。でもさ、あいつはヤングケアラーだからさ。何者でもない俺よりも遥かに魅力的なわけで。
「あとはおまえの勇気の問題だ」
 いつだって忌々しいおやじの台詞が頭に浮かぶ。それは俺に勇気がないと言っている。とどのつまり俺には勇気がないわけで。なにか突飛なことをやらかさないとこの緊張感から解放されない。
「カンチョーお見舞い申し上げます」
 鉄棒にぶら下がったままの幸子の尻にお見舞いした。割といい勢いで。鉄棒から飛び降りた幸子は振り返った勢いで平手打ち。思いがけない威力にしりもちをついた。こいつはかなり劣勢だ。さらに落ちる以外に選択肢は無く、俺はズボンの中から放尿した。お漏らしだよ。中学生だった。十四才だった。
「モーレツ」
 菊池はどこまでも優しかった。それ以上のことは言わず、チャイムが鳴ったら幸子の手を引いて教室へ駆けて行った。
「先生、社会が変わらなきゃいけないって何なんですか?そいつで俺が楽になれるんですか?」
 ある日、菊池は授業中に声を上げた。やっぱりヤングケアラーという人間は俺にとって絶対にかなわない存在でさ、あの頃から宇宙の果てに飛ばされるくらいのことが必要だったんだ。
 菊池とは進級でクラスが変わってしまえば、交流が途切れてしまうような間柄だった。それにもかかわらず俺にはインパクトがあってさ、あいつの言うことがたまに分かるんだよ。
「社会が変わらなきゃいけない」
 あのセリフが出てきたときは気を付けなければならない。

 舟内には地球時間を刻む時計と俺時間を刻む時計が並んでいる。既に何度も加速を行っているから、地球時間を刻む時計は倍程度進みが速い。俺は俺時間の秒針を眺めながら振り子のようになって左右の頬に拳を当てる。次第に力を籠め、鈍い痛みが溜まっていったら、今度は力を抜いていく。
 モニターの背景はいつも同じで、映し出される顔は老けない。
「どこまで行けばいいですか?」
「どこまでも」
「いつまで生きればいいですか?」
「いつまでも」
 普通に生きたって、俺は社長より長生きする。
「私が死んでしまえば、その先のことなんて関係ない。そう思ったでしょう」
 何が仕込まれているのか知らないが、脳に刻まれた言葉たちは簡単に汲み取られる。俺の思考が単純過ぎるのだけのことだろう。
「社長自身が宇宙に飛びたい。なんて考えたことないんですか?」
「いやだよ。空気もない。放射線だらけの空間なんかより、たらふく肉が食えるこの地球が好きだ」
 ヒトを飛ばしておいて随分なセリフだ。
「誰にもできなかったことをするぞ」
「神さまみたいですね」
「俺は学者だ。神さまなんてものにはおまえがなればいい」
 実際、俺を神と崇める妙な輩が現れはじめた。世界の果てを教えてくれる。決して手の届かない存在。いくつもの原子力ロケットを積んだ箱舟に乗り込めば誰だってなれるのに。それでもこんな機会に巡りあう間抜けはなかなかいない。真冬の鉄棒も、十四のお漏らしも、すべて俺が宇宙へ飛ぶために必要な階段だった。偶然の積み重ねに物語を拵えて、神さま然とした振る舞いを。俺の写真を神棚に掲げておおぬさを振り回すやつがいる。社殿には多くの信者が両手を上げて揺れている。妄想は海馬から大脳皮質へ、本当の記憶が次第に脚色されていく。

「管制塔から小比叡船長へ。気分はどうだ?」
「まあ、ボチボチです」
「おまえはいつだってボチボチだな。地球はそろそろ限界だよ」
 地上がティッピング・ポイントをとうに越えている。俺へ盲目的な崇拝が加熱する。白目を剥いて信心深く揺れる。
「デュアル開発はどうなりました?」
 応答がない。
「最近、第二のおまえになりたいって、宇宙に飛びたがるやつが増えた」
「儲かってるんですね」
「断るよ」
 何故に。
「美味しいお肉は食べてますか?」
「肉?」
 モニターに映る顔は滑らかでも、社長の応答が鈍い。少し声を張って自分の爺さんに話しかけるような口調になる。
「たらふく肉が食える地球が大好きなんでしょう」
「今では、牛肉は悪食の象徴だ」
「回帰不能点を過ぎたというのに、随分と真面目な動物だね」
 小さなフレームに収まった俺の写真がモニターに映った。胸糞悪くなる餓鬼の頃、鉄棒につかまって真っ逆さまになっている写真だった。
「なんでそんなもの持ってるんですか?」
「最近のヒット商品だよ。勘違いしないでくれよ。売ってるのは俺じゃない」
 俺は唖然とする。俺がはじめて宇宙を感じた瞬間という触れ込みだという。
「そんなもので親父はどれだけ稼いだんだろう?死にかけの地球で」
 社長は小さな笑みで二、三、頷く。
「もう一段階加速してみようか」
 話を終わらせたい時の合図。
 俺はシートベルトを締めて、ボタン一つで原子炉に燃料を投入する。身体に加速の衝撃が加わりしばらく目を閉じる。地球時間を示す時計がまた少し加速した。

 スターダストの配信チャンネルでは俺の映像が時折更新されている。打ち上げられる時はテレビニュースにもなった。民間人の打ち上げは珍しいものではなくなったが、帰ってくるつもりがないというのだから多少は話題になる。人体実験ではないのか。長時間労働ではないのか。テレビは消えると言われ続けて久しいが支持層は厚い。
 余命四〇年に十分な栄養と快適に暮らせるだけの水と空気も積み込まれている。サバチエ反応と水の電気分解である程度の循環は適っている。処理しきれないメタンだけが少しずつ垂れ流されていく。そんなに家に帰ることが重要か。俺はここで寿命を全うすることができる。実際、快適な旅は続いている。
 目を閉じて悪ふざけで坐禅を組む。股間に法界定印を乗せて宙を舞う。その動画はウケがよく、切り取られたGIFが拡散された。性欲に悶える馬鹿な姿を晒してやってもよかったが、どうせ広報部が切り取った映像をアップする。晒した馬鹿の多くが報われない。
 それにしても親父、片道切符に倫理観を問う市民がいるというのに、餓鬼だった俺の写真で小銭を儲けているというのだからなんとも質が悪い。
「あんたはなんだってお父さんのせいにすればいいから楽だね」
 かつて付き合いのあった女の声が甦る。いい匂いを放っていた。身体の相性もよかった。
「出生前診断でもしてみたらどうだ。赤ちゃんの4パーセントくらいは異常を持って生まれてくるらしいぞ」
「異常ってなに?」
「ダウン症とかそんなんだよ。そんな面倒を抱えるはご免だぞ」
 聖人のように面倒を抱えて喜べる俺ではない。女だって理解していたはずだ。出生前診断という言葉を繰り返していれば次第に興味を持つようになる。そして、21トミソリーであると診断されると、女は大泣きして崩れた。
 二一番染色体が三本もあるという。多は少を兼ねないらしい。
「そもそも本当に俺の子供なのか?」
 舌を出したら、頬を張られた。ありきたりな芝居に付き合ってくれたことは、女の愛情だったなどと思い込む。
 別れた女は息子の様子をしきりにSNSへアップした。アカウント名は昔から変わっていない。俺は変えたけれど。五月には兜を被せ、十二月になればサンタ帽子を被せた頓狂な顔写真をアップする。女自身の写真は出てこない。俺に見せるためにアップしているわけでもないだろうが、あいつに俺の面影を探そうとする。ダウン症のどこにでもいるような顔つきの幼児。気に入った写真はダウンロードしてフォルダにためてしまうのだから不思議なものだ。例えば画才があるとかさ、異常にピアノが上手いとかさ。そんな分かりやすい天才であいつらの生活が潤えばいいと願う。できればあまり長生きはしないでやって欲しい。女の不幸を望んだことはない。
 宇宙舟に乗り込んでから、あいつ等の生活が覗けないことは残念だ。管制塔を介した情報しか得ることができない。スターダスト・チャンネルに公開された映像を、女と息子は観ることがあるだろうか。その映像を眺めながら「パパよ」なんて微笑む女の姿が妄想できる。「星屑になったの」なんて、「神さまになったの」なんて、「酷い男だったの」なんて、「あんたと私を捨てたの」なんて、子守歌のように聞かせるのだ。

「管制塔から小比叡船長へ」
 モニターに手を振ると、それが知らない顔であることに気付く。
「社長が亡くなりました」
 そうか。
 数日前にモニター越しで会話をしたばかりだった。最近、おもしろい学生が入ってきたと、珍しく社長が新しい話題を振ってきた。地球人以外の知的生命体とコンタクトを取るため月の背面に巨大な直角三角形とその三辺に正方形を描きたいのだという。随分と快活にしゃべり続けるものだから、俺はそのピュタゴラスの青年に嫉妬したものだった。
 地球時間を示す時計を眺めた。旅立ってから俺時間でも三〇年は経とうとしている。
「気分はどうだ」
 何度も話した。同じようなことばかり。
「ボチボチやってます」
 社長はいつだって俺の気分を窺っていた。すぐ隣で仕事をしていた時には訳が分からなかったけれど、ここまで時空の隔たりがあれば、問いかけとして適切に思えた。
「おまえはいつもボチボチだな」
 日常はなにも変化がない。食事だってそれぞれに色はあれど味噌のようなペーストばかり。語れることと言えば、時折、窓からのぞく小惑星のこと。見慣れればでかい石だ。
 結局、社長のとり憑かれた研究テーマはなんだったのか。本人の口から聞く機会はなかった。宇宙に放り出されたおっさんの具合を調査したかったか。それは次第に狂っていく仮定があったのだろうか。俺はモルモットとして適切だったのか。割と頑固なんだよ。憎むべき、否定すべき親父という存在があったから。
 モニターに映されたままの端正な顔。俺が口を開くまで何もしゃべらないと決め込んでいるようだ。
「ところで君は?」
「知っているんじゃないですか?」
 ピュタゴラスか。
「何故、宇宙ではペースト状の飯を食わなければならないか知ってるか?」
 わずかに間を置いてから青年は首を傾げた。
「昭和生まれの俺たちにとって、宇宙食と言えば色とりどりのペーストだった。SF漫画を再現することが未来を創造することなんだよ」
 いい加減な話にも青年は品のいい笑みを返した。人間の優しさに触れると、少しの緊張感を覚える。ピュタゴラスは黙ったまま唇を噛む。なにか発言を躊躇っているだ。
「月の裏側にピュタゴラスを書くんだとか」
「それはもう済みました」
「地球に知的生命体がいるとばれてしまうな」
 青年の唇にまた少しの笑みが宿った。
「何の信号もキャッチできないですけど」
「ところでピュタゴラス君、社長はいつ死んだんだ?」
「初代社長のことですか?。私が入社した時にはもう亡くなっていました」
 そりゃそうだろう。
「なんで今になって私に連絡した?」
 なんで今になって社長の芝居をやめたのか。
「もう限界なんです。清潔な水を確保できるニンゲンだって限られている」
 俺はアニメーション映画程度の想像しかできない。
「ピュタゴラス君は、どうするんだい?」
「僕も宇宙に飛びます。この管制塔はもう閉じます」
 身体に震えが走った。
「大丈夫。この通信機は持って行きます」
 両腕をほどいて膝につく。
「あと、ピュタゴラス君というのはちょっと。社長から名前聞いてませんか?」
 おそらく忘れただけだと思う。
「菊池です。私の曾祖父母とは古い友人だったとか」
 俺は目を丸めた。ならば聞いていなかったのだろう。
「変な昔話を聞かされていなければいいが」
 どうせ聞いているだろう。
「神棚に逆上がりの写真が飾ってありましたよ。お陰で私も宇宙船の設計などしている」
 俺は飛ばされた側だけれど。
「まさか神様とこうしてお話ができるなんて」
 菊池は破顔する。
「やめてくれ。宇宙に出た人間はどのくらいだ?」
「社長の舟で飛んだのは小比叡船長だけ。私の舟で飛んだ人は二〇人います」
 菊池は少しだけ胸を張る。
「そいつは驚きだ。で、地球に残った者たちはどうなる?」
「残された土地で奮闘している方はたくさんいます。未だデュアル開発を支持している人。地上に作られたバイオスフェアで暮らす選択ができた人は一握り。不完全な物質循環でも、残された寿命には十分だって。逃げ切り世代なんて言葉ずいぶん昔からあるでしょう。今度は本当に、地上最後の世代。なんだかんだ地面から離れることが一番怖いってヒトが大半です。私の両親も含めて」
「次の世代に繋ぐことはあきらめたか」
「僕たち二一人以外は」
「火星にでも移住する気か?」
「まさか。可能な限り加速を続けます」
 なるほど。
「未来に行くと」
 菊池はうなずいた。
「少なくとも光速の九九、九パーセントまでは近づきたい」
「一〇年で二〇〇年くらいか」
「さすが」
「簡単な計算式だよ。チェルノブイリの赤い森は三〇年で復活したそうだが」
「もともと木々に覆われていたところは回復が早いんです。人工物だらけの都市部はそんなにうまくはいかない」
「何年後に地球へ帰る気なんだ?」
「とりあえず一〇年」
「二〇〇年後か。地球はまともな生態系に戻っているだろうか?」
「この舟が完璧なエコシステムだと言っても、結局、自分たちに寿命があるから」
 菊池はヘッドセットに人差し指をあてる。
「初代社長の研究成果って知ってます?」
 俺は極力平静を装う。もう少し勿体ぶるかと思えば、あいつは結論から切り出した。
「この通信技術ですよ。今、小比叡船長は光速の九〇から九五パーセントくらいで進み続けています。普通に考えたら交信なんてできない。これは本当にすごくて」
 菊池は俺の理解を超える単語を繰り出しながら興奮気味に話を続けた。自然と涙があふれた。そいつは角膜を覆い、首を振れば粒となって散る。それでも口元には微笑みを浮かべている。なるほど。事故でもない限り検体は一体で構わないわけだ。たまに交信をして「気分はどうだと」声を届ける。「ボチボチやってます」と声を受け取る。そして、また一段階加速する。
「船長は本当に帰らないんですか?」
 なんと答えていいやら。俺はどこまでも地球から離れるために飛ばされた。折り返す機構は有してはいない。未来を語れる若者たちが眩しい。俺も随分と歳をとった。
「このまま行けるところまで飛んでみるつもりだよ」
「もう一つ」
「なんだ?」
「初代社長のように死んでも存在し続けたいですか」
 とうに死んでいると分かっていながらも社長の存在は希望だった。
「君たちで決めればいい」
 俺はモニターを切ってシートベルトを締めた。ボタン一つで原子炉に燃料を投入する。身体に加速の衝撃が加わりしばらく目を閉じる。地球時間を示す時計がまた少し加速した。

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