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割とキリギリス

「みんな買うって言ってるよ」
「郁子のみんなって三人くらいでしょう」
 四人だもん。私を入れれば。
「スマホは早めに持ったほうがいいんだよ。どうせいつか持つんだから早めに覚えたほうがいいって、先生が言ってたよ」
「先生がお金出してくれるわけじゃないでしょう」
 お金の話を出されると手に負えない。高校に入ったら絶対にバイトしてやる。諭吉一枚でも家計に入れれば文句ないでしょう。私は湯気の立つ皿を受け取ってテーブルに着く。
「俺、ジャワカレーのほうがいいんだけど」
「文句言うやつは食べないでいいよ」
 そんな言葉を口にしたのは私なんだから笑っちゃう。どうしても脊髄反射であの人の味方をしてしまう。お母さんは口元で笑って眉を垂らす。その表情で何かを伝えようとする。言いたいことがあるなら声に出しなさい。
 最近はカレー粉から作るカレーに凝っているらしい。玉葱の値段が一時期より大分戻ったんだって。前から一度やってみたかったんだって。実験台になるのは私たち。私と樹生しかお母さんのご飯を食べる家族がいないから。
「玉葱シャキシャキだし、水っぽいし、バターがきつい」
 樹生はお母さんのやることに容赦ない。でも、言いたいことは分かる。玉葱なんて跡形もなくなるくらいクタクタにしてほしいし、もっとトロトロしていたほうがいいし、バターは減らしたほうがいい。要するに私もジャワカレーのほうが好きだ。
「明日になればもっとおいしく馴染んでる」
「そうそう。カレーは二日目がおいしい」
 お母さんは席について「いただきます」と自分の料理に手を合わせる。私と樹生も手を合わせた。お母さんの視線を感じてもう一つ感謝を込める。口を動かしはじめると樹生は文句を言わない。食事中は黙したままが我が家の作法。テレビも付けず、スプーンが陶器の皿を打つ音だけが響く。今はもういないお父さんの言いつけだった。お母さんが作ってくれた食事に感謝して、食事中のテレビは許さない。今時、観たいテレビなんて好きな時間に再生できる。樹生に至ってはユーチューブを観るばかりで、そもそもテレビなんかに興味はない。
 それでも会話の一つくらいはすればいいのに。お母さんの料理に感謝するのならば、美味しいねとかさ、どうやって作ったのとかさ、なんかお母さんの喜びそうな言葉の一つでもかけたいじゃない。沈黙にお父さんが浮かび上がる。それもなんか嫌だ。お酒臭かったお父さん。一緒に寝るには暑苦しかったお父さん。食事中に緊張感を醸し出すお父さん。
「ごちそうさまでした」
「ごちそうしました」
 いつも、いつものお母さん。
 樹生はリビングにある一体型パソコンを起動して、激辛カップ焼きそばを食べる四人組に大笑いしている。私は洗濯カゴから自分の服だけをたたんで部屋に連れて帰った。もともとはお父さんの仕事部屋だった。いつまでも新型と呼ばれるウィルスが流行りはじめて頃、日中だって部屋を締め切ってパソコンと向き合っていた。あのラップトップは会社支給だったから、ここにはもうない。埃を被ったセカンドディスプレイだけが真っ黒な画面のまま机に置かれている。椅子に腰かければ私の顔を映しだした。本来の用途は無くしてしまったけれども、ここには一枚板を置いておく必要がある。お母さんが不意に部屋をノックして入ってくるかもしれない。樹生に至ってはノックすらしない。そんな時、頭を隠せる一枚が必要でしょう。
 九時半までは樹生がパソコンを使う時間。私はしかたがないから本棚から参考書を引っ張り出す。勉強でもして時間を潰す。英語の教材にSnow White and the Seven Dwarfs。それが中学生としてあるべき姿なんだって。そう思っているのはなぜだろう。
「ディスプレイよ、ディスプレイよ、ディスプレイさん」
 言いにくいったらありゃしない。お母さんに心配をかけず、今日も私はいい子です。だから、一日でも早くスマホが手に入りますように。
 ある日、学校から帰ったらスマホが机に置かれている。そんなある日を夢見ている。冷たく滑らかな端末を手にして目を丸くする。
「どうして?」
「いつか持つんだから早めに覚えたほうがいいでしょ」
 そうだよ。先生だって言ってたもん。嘘。本当は香瑠愛のお母さんが言ってた。香瑠愛なんてラインもやってて、学校のみんなとつながっているよ。
「あんたの言うみんなって三人くらいでしょう」
 分かんない。実際、そんなものかもしれない。
 九時半が過ぎたら私には樹生をパソコンの前から追い払う権利がある。
「はい、どいたどいた」
「これ終わったら」
「無理」
 ユーチューブを強制的に閉じてお尻で弾き出す。なによりメールをチェックする。朱莉と香瑠愛とハシムニカ、そして、私、四人のグループメール。朱莉は田舎のおばあちゃんちにいるんだって。びっくり。田舎のおばあちゃんちってそんなに近くないよね。明日学校だよ。今日中に車で帰るって。車か。いいよね夜のドライブ。ハシムニカはほとんどメッセージを送ってこない。香瑠愛はきっとスマホで自分のベッドからメールしているんだ。今日もチャレンジしたけど駄目だった。なにを?スマホ買って攻撃。香瑠愛のお母さんがいいこと言ってたじゃない。それを言っても駄目だった。先生が言ったってことにしたんだけど。なんで先生にしたの?なんか、そのほうが効き目あるかなって。香瑠愛のお母さんのほうが効き目あるでしょ?
 ないよ。だって、香瑠愛んちはお金持ちじゃない。ってこれは言えない。
 ヤッベエめっちゃウケる。あんたは急に何なの。ペヤング獄激辛にんにくやきそば一気食い。マジ臭そう。男子ってそういう動画好きだよね。うちの弟も見てた。リンクとか送ってこないでいいから。
 私はリビングでカタカタとキーボードを叩く。お母さんは鏡台に向き合って割り箸を咥えながら首筋を伸ばす。いい匂いの化粧水をいっぱいコットンに染み込ませていくつも顔に貼る。納戸からは樹生の裏声が聞こえる。あいつ、暇になるといっつもなにか歌ってる。声変わりしていないから、地声なのかもしれない。
 夜が更ける頃、自分の部屋に戻って布団を敷く。去年まではお母さんとお父さんが一緒の部屋で寝ていた。まだ樹生が生まれる前、その間に私が眠っていた。お酒臭くて熱い身体から逃げるように、いつだってお母さんに顔を向けていた。それはいつしか樹生に代わり、今となっては三人とも別々の部屋で眠っている。お母さんきっと寂しいよね。時折、寝ぼけて泣きながら樹生がお母さんの布団に潜り込む。たまにそういうのがあったほうがいいと思うよ。あいつ馬鹿だけど可愛いところあるから。

 朱莉は遅刻することなく学校に来ていた。
「支持率が下がると言うこと聞く聞く。必要なのは政権交代ではなくて、支持率三〇パーセントの維持なんじゃないの?」
 この国の聞く耳が少しずつ若い活動家の声に反応するようになる。それでも気候危機には適応と緩和による二本柱だと聞こえのいい言葉しか返ってこない。
「一〇年も生きない人間が未来を蝕む」
 誰かが言いはじめた言葉が共感を呼ぶ。誰もが私の声だという。何度もその言葉を口にしているうちに自分が言いはじめた言葉じゃないかしらなんて思いはじめる。私は朱莉が広めたんじゃないかと思っている。あの子は本当に地球の未来を憂いているから。
 身近で分かりやすいもので言えば隣町で裁判にもなっている石炭火力発電設備二基の増設。我が県が誇る気候危機のシンボル。朱莉に誘われて建設反対のスタンディングにも行った。「石炭火力反対~STOP気候危機」と書かれた横断幕を広げてみんなで声を合わせる。朱莉と香瑠愛は大声を出すことに何の抵抗もないから、気持ちよさそうに喉を振るわせていた。香瑠愛の場合は目立ちたがりなだけだけれど。ハシムニカはヌボーっと突っ立てるだけ。私はと言えば、朱莉のコールにボソボソと呟きのレスポンス。ここに立つだけでなにかの役に立っているんだって言い聞かせていた。きっと朱莉がやっていることは正しくて、きっと私たちの未来は危うくて、それでも大きな声を上げることができない。正直、いまいち実感がないんだよね。川に飲まれる街はいつだってテレビの向こう側。建設中の石炭火力がどれだけ私を苦しめるのか、その未来が想像できない。
 ぼんやりと誰も住めなくなった地球を思い浮かべる。海に沈んで太古の姿に戻るのかな。ニンゲンが駄目なことをしてきたのだから、いなくなってしまえばいいのかもしれない。それが私たちに渡されたバトンなの。お父さんやお母さんが勝手なことをしてきたせいで、私たちの未来が海に沈む。とても不平等なことだけれど。必死に稼いで、作ってくれたカレーを食べて生きている。私はまだお母さんによって生かされている。高校でバイトするようになったら、もっと上手に怒れるだろうか。
「須賀田」
「あ、はい」
 不意に先生に呼ばれて、顔を上げる。黒板には連立方程式の問題が書かれていた。禿でチビ。数学の木村を表現するにはそれが一番わかりやすい。黒板だって下半分しか使わない。私は立ち上がって、机の並ぶ隙間を抜ける。不意に朱莉が小さな紙きれを手渡した。目の前の連立方程式はそんなに難しい問題ではなかった。チョークを手に取って黒板をコツンと叩く。計算を始める前に朱莉のメモを開いた。「田舎のおばあちゃんちに行こう」なんだよこんなタイミングで。田舎のおばあちゃんちってけっこう遠いよね。電車賃いくらかかるのだろう。私はチョークを粉受けに戻した。
「どうした?分かんないか?」
 チビで禿で声が高い。まだ一〇年以上は生きるかな。
「はい」
 ハシムニカが手を上げた。指される前に黒板に向かって歩き出す。私はすれ違いざまに紙切れを渡した。あいつはそれを開くこともなく難なく問題を解いた。
 給食にはすっかり黙食というスタイルが定着した。もともと一五分しか時間がないから、集中しないと食べ切れないんだよ。
 昼休み、あの紙切れは香瑠愛に渡っていた。
「これ見た?」
 香瑠愛が私の机にやってくる。女の私が見ても可愛いと思う顔。憧れとかそういうのとはちょっと違う、お人形みたいによくできた顔。
「ハシムニカのおばあちゃんち行く?」
「え、朱莉じゃなくて?」
 私は朱莉に渡されたからてっきり朱莉のおばあちゃんちだと思っていた。実は朱莉も誰かに渡されたメモだったりして。
「行こうか」
 ハシムニカがやってくる。こいつはきっと私のおばあちゃんのちだと思っている。だから先に言っておくけど、
「多分、朱莉のおばあちゃんちだと思うよ」

 朱莉のおばあちゃんちでなにより驚いたのは、物々しい日本家屋以上に、玄関を開けるとは立派なキリギリスが佇んでいたことだった。
「さぁ、入った入った」
 自ら鍵を開けた朱莉は、キリギリスのことなどお構い無し。外へ逃がそうともしない。キリギリスもキリギリスでそこが自分の生活空間であるかのように佇む。ひょっとしてキリギリスの置物かしら。私のマンションに紛れ込む虫と言えば黒い彗星。アダンソンは益虫だから殺さないでいいと教えられたハエトリグモ。秋になればカメムシが網戸に卵を植えつける。
「お邪魔します」
 私はキリギリスに小さく頭を下げる。
「あのさ?」
 スニーカーを脱ぐ私の頭を超えてハシムニカは朱莉に尋ねる。
「なに?」
「おばあちゃんは?」
「この前死んじゃった」
 で、あの日おばあちゃんちだったんだ。死にたてのホヤホヤ。馬鹿みたいな言葉が浮かんで首をふる。
「おじいちゃんは?」
「会ったこともない」
「誰もいないの?」
 私はキリギリスに視線を落とす。
「いないよ」
 朱莉は鍵を振った。
「何しに来たの?」
 香瑠愛は細い首を傾げる。
「遊びに来たんじゃん。おばあちゃんと遊びたかった?」
 香瑠愛は私と目を合わせる。なにか言わないといけない。
「いいじゃん。広くて誰もいない家」
「でしょ。遠慮なく上がって」
 ひんやりした床は音を立ててきしむ。暗い廊下を恐る恐る抜け、朱莉が居間の雨戸を引いたら目が眩んだ。大きな窓から陽が差し込む。すっかり枯れた畳、掛け軸のない床の間に木彫りの熊、据え付けの棚には小さな水車小屋の置物が置かれていた。
「まだあった」
 朱莉は水車小屋を手に取ってゼンマイを回した。水車は回りだし、オルゴールが悲しげな音楽を奏ではじめた。なんだかいい予感。
「木彫りの熊って実際あるんだな」
 ハシムニカはペタペタとその頭を叩く。
 香瑠愛は広縁に置かれたロッキングチェアに揺れていた。スマホを手にして私たちにカメラを向けている。四股を踏みはじめるハシムニカ。カメラの向けられると何かしなければ気が済まない男子。
「腹減ったな」
 昼ごはんのことは気になっていた。なんとかお小遣いをもらってきたけれど、近くにお店があるのか知れない。
「ピザでもとる?」
 香瑠愛は言う。
「とれんのか?」
 私の疑問をハシムニカが口にする。
「駅前は割とひらけてたでしょう」
「無いこたないんじゃない」
 香瑠愛は早速スマホで検索をはじめた。香瑠愛の奢りなんだと期待する。
「水は買っといたほうがいいかも。水道出ないよ」
「電気は?」
「夜は早く寝ましょう」
「トイレは?」
「行きたい人は一緒に水を買いに行くよ」
 なにより四人でスーパーに向かった。
 ピザは期待通り香瑠愛の奢りで、チキンやポテト、コーラ・ゼロまでついてきた。
「頼み過ぎじゃね」
 夕飯までを考えれば足りないような気もする。枯れた畳に油にまみれた平箱たちを広げれば、おばあちゃんちの空気にチーズやトマトケチャップの匂いが溶け込んでいく。口を尖らせながら頬張る四人を木彫りの熊が眺めていた。
「かくれんぼできそうじゃね」
 ハシムニカが言い出すと、朱莉がうつ伏せになってカウントダウンをはじめた。反射的に歯型のついたピザを戻して三方に散った。私は二階につながる階段を見つけて、暗い隙間を駆けあがる。思わず飛び込んでしまったけれど、暗いの嫌いだよ。軋む階段に耐えられず引き返そうとすれば、
「もういいかい?」
「もういいよ」
 なに、はやくない?私はやむを得ず駆けあがる。部屋のふすまを引けば窓枠から僅かな光が漏れている。すぐに飛びついたけれど、雨戸が動かない。何でこの家は何処の窓も塞がれているのよ。引いても上げてもガタガタと音を立てるばかり。暗闇の中で僅かに生活の匂いが残っている。死にたてのおばあちゃんの匂い。朱莉も会ったことがないおじいちゃんの匂い。
「みっけ」
 肩を叩かれて悲鳴を上げる。振り返れば涙を浮かべた私を朱莉は抱きしめた。
「大丈夫」
 かくれんぼはすぐに終わった。軋む床に慣れない匂い。みんな光を求めて居間に集まった。トマトケチャップとチーズの匂いに救われる。赤と青の見慣れたロゴに安堵する。陽の当たるところを求めて転がれば、熱を帯びた畳が背骨を暖めた。いつだって四人でいれば完璧だった。
「帰りたくない」
 朱くなりはじめた陽光が香瑠愛の足を照らす。
「学校で勉強なんかしたって、私たちが大人になるころには海に沈んでいる」
 朱莉と香瑠愛はきっと違うことを考えている。
「この家と一緒に朽ちていくか」
 ハシムニカは朱莉の声に乗っかった。
「六〇パーセント」
「なにが?」
「スマホのバッテリー」
「俺たちに残された時間みたいだな」
 ハシムニカは木彫りの熊がすっかり気に入ってしまったようだ。我が子を抱くように添い寝している。
「五九パーセント」
 私も何か言わなきゃ。
「きっと舟が売れるよね」
「なにそれ?」
「街が海に沈んだら舟が必要でしょう。舟作ってる会社に就職しようかな」
「舟作ってる会社も沈むんじゃない」
「舟で会社を浮かべればいい」
「あったまいい」
「思ってないでしょ」
 朱莉の今の言い方は絶対思ってない。
「俺、昔水泳習ってたんたけどさ、もっとやっとけばよかった。海潜って銛で魚突ける人って最強じゃない?」
「私だったら山に逃げる。向こうに山が見えるでしょう。ここ盆地だから直ぐに沈むよ。あんた海潜って魚とってきてよ。私、山でお米でも育てるから」
「なに?朱莉、ハシムニカと結婚するの?」
「橋本朱莉」
 ハッハッハ。橋本だからハシムニカ。
「五八パーセント」
「速くない?」
「郁子も一緒に山にきてよ。香瑠愛はクルーザーくらい買えるでしょう。なんとかなりそうじゃない。四人でいれば最強。絶対に適応してさ、緩和だとかいいながら何にもしなかったお母さんとかに大声で文句言えばいいよ」
 私はちょっと、
「お母さんに文句なんて言えない」
「俺も」
「変なの。じゃあ、私のお母さんでもいいよ」
「なんで香瑠愛の?無理無理」
「じゃあ、数学の木村とか」
 ようやく笑えた。チビで禿げだったお陰だよ。太陽はすっかり朱くなっている。
「もう一回トイレ行っとく?」
「スーパー?」
「朝ご飯におにぎりでも買っておかないと」

 一台しかない香瑠愛のスマホが生命線で(なんだかそういう決まりで)、翌日には私たちはそれぞれの家に帰りました。学校もあるし。
「ただいま」
 お母さんは、通帳と電卓を交互に睨みながら定型文を口にした。
「おかえり。楽しかった?早くお風呂に入っちゃいな」
「楽しかったよ。おみやげないけど」
「郁子が楽しかったら十分」
「樹生は?」
「まだ外でボールでも蹴ってるんじゃない。帰ってくる前に入っちゃいな」
「靴あるけど」
「ああ、それ捨てるやつ。あの子いっつも踵擦って歩いてるからすぐ靴ダメにするのよ。サイズもすぐ変わるし、お金かかってしょうがない。あと一五年働いたらお母さんもう定年だからね。住宅ローンはパパの団信で片付いたけど、修繕積立金っていうのがあんのよ。あんたたちの進学とかも控えてるじゃない、あんた頑張って公立行ってよ」
 お母さんは句読点の間に溜め息を挟む。私はあああと発しながら両耳を連打、すり足で風呂場へ逃れた。私たちに言わせれば、あと一五年もこの地球が平常運転であるはずがない。鼻まで湯船につかって息を吐く。一五数えながら泡を吐く。苦しくなってきた時に限ってバスタブにお尻を滑らせる。溺れそうになって這い出た。溺れ死ぬにはまだ早い。
「やっぱりお米くらい自分で育てられないとダメだよね」
 息を整えながら、おにぎりを買いに行ったときの朱莉の言葉を思い出す。気候危機には適応と緩和なんだって。緩和対策って頭のいいリーダーたちが本気出してくれないとどうにもならない。適応を本気で考えることは私たちにだってできるような気がする。やっぱりお米くらい自分で育てられないとダメなのだろうか。
 バスタオルで頭を掻き回し、いつもならば今度はどんな手でスマホを買ってもらえるよう交渉をしようかと考える。どうもそんな気分にはなれなかった。
「みんな言ってるよ」
「郁子のみんなって三人くらいでしょう」
 だから四人なんだって。私を入れれば。この地球が熱くなっているのはニンゲンの活動によるものなんだよ。黙っていてあげるけれど、もっと言えばあんたたちなんだよ。お母さん。あんたたちが欲に任せていい加減なことをし続けてきたから、私たちがその被害を受けることになるって言ってんの。知ってる?一・五度を越えたら取り返しのつかないことになるって。
「ポイント・オブ・ノー・リターンだよ」
 私は無力さに打ちひしがれながら小さく声にする。
「誰が脳足りん?」
 お母さんは雪平鍋で炊いた大豆と昆布に味をつけていく。毎日のご飯を用意するだけで精一杯なことも分かるけど、あと数年もすれば取り返しのつかない事態になるんだって。お母さん、どうしたらいいと思う?今の政治家ってほとんどがお爺さんで、死ぬまでもうじきなんだって。もうじき終わる人生のことさえ考えれば、何にも困らないんだって。私だってあと一〇年で死ねるならば地球の心配なんてしなくて済むんだよ。
 顔に泥を付けた樹生が帰ってきた。済まないかも。
「おかえり」
「俺、甘い煮豆って好きじゃない」
 相変わらず母親の食事に文句をつける。文句言うやつは食べなくていいと言いたいところだが、副菜を残していいとなれば弟の思う壺だ。
「黙って食べろ」
 甘い豆がおかずな気がしないという理屈は分からないでない。
「俺あれ好きなんだよね。給食で出る揚げた塩大豆みたいないやつ」
「なにそれ?」
 拙い説明が益々混乱させる。
「郁子も食べた?」
 私は首を傾げる。
「要するに揚げて塩かければいいの?」
「多分。しょっぱいおかし風」
 そこがポイント。
「今度ね。早くお風呂入って」

 朱莉が学校を休んだ。昨日、最寄りの駅までは一緒だったけれど。あれから朱莉は家に帰ったのだろうか。行方不明と決まったわけではない。そんなことになったなら担任のティーチャー淀川も黙ってない。
 休み時間には香瑠愛とハシムニカが談笑していた。なんだか絵になる二人。四人組ってなんとなく繋がりに太さの違いがあるじゃない。ペアになる時は大抵私と朱莉。あの二人を邪魔してはいけないかしらなんて変な気を回す。数学の授業ではまた木村が私を指名した。三角形の外角くらい分かるんだよ。
 一五分の黙食の後、昼休みは三人揃って朱莉の話題となった。
「珍しいね、朱莉が休みって。何か聞いてる?」
 私は首を振る。
「田舎のおばあちゃんちに戻ったんじゃねえの?」
 ハシムニカはあの家の細部を覚えている。冬休みまでには一週間くらい過ごせるようにリフォームしたいなんて、他人の家に勝手なことを言いはじめる。
「お風呂、お風呂」
「まずそこなのか?」
 香瑠愛の優先順位をハシムニカは理解ができない。でも、冬だしね。お風呂は重要。
「お風呂ができたら割と何でもいけそうじゃない。水があって温められるわけでしょ」
「ドラム缶でも転がってれば、薪で焚いてなんとかできそうだけどな」
「ドラム缶に入るの?」
「入んねえよ。風呂から水循環させて薪ストーブで温めるんだよ」
 ハシムニカには何かイメージがあるのかもしれないけれど私たちにはさっぱり。香瑠愛の丸い瞳と視線をぶつけて首を捻る。
 朱莉の欠席は続いた。ティーチャー淀川からはコロナだって聞かされたけれど、私たちには感染っていない。夜にメールを送っても朱莉からの返信はなかった。数日後には香瑠愛まで休むようになって、その夜に状況を知った。
 香瑠愛からの写真付きのメールが届いていた。ヤッホー、朱莉と一緒にいるんだよ。背後には木彫りの熊が映っていた。田舎のおばあちゃんちだということがすぐに分かる。
 二人ともは元気なの?元気元気。ティーチャー淀川はコロナだって言っていたよ。お母さんにそう言っとけって言っといた。わけが分からない。朱莉のお母さんは朱莉が田舎のおばあちゃんちだって知ってるの?多分気づいてる。ここのカギ持ち出すの見られたから。お互いウンザリしてるから離れて暮らしたほうがいいんだよ。また喧嘩した?私たちに適応を求めてるんならもっと本気出しなよ。って言ったの?街が水没しても三食ご飯が食べられる方法を教えてよ。って言ったの?ガスがなくてもお風呂に入れる方法を教えてよ。って言ったんだ。やっぱりお風呂って重要だよね。お風呂が焚けたら割と何でもいけそうじゃない。同意。お風呂焚きたい。焚きたいよね。焚きたい。焚きたいよ。ドラム缶があればなんとかなるってハシムニカ言ってたよ。ドラム缶か、もらえるかな。なに?知り合いでもできたの?前からお母さんに聞いてたんだよ。この辺で農家やってる従妹のこと。朱莉の従弟?お母さんの従弟。ちゃんと心配してるんじゃん。そりゃ親だもん。朱莉も信頼されてるんだよ。お母さんと同じ歳くらいって思うじゃない。違うの?すっごい白い髭生やしたお爺ちゃんだった。ポム爺さんみたい。誰だっけそれ?米は素人には無理だって。まず大豆の育て方教えてもらうことになった。え、すごいじゃん。畑の牛肉。なにそれ?あとお風呂ができたら最強じゃん。ハシムニカがつくってくれるんでしょ。あんまりあてにならないけど。湧水が汲める神社があるらしいの。水なんてどうとでもなるってポム爺が言ってた。最強じゃん。そういえばハシムニカ入ってこないね。こっちに向かってるのかな?え、私だけ置いてけぼり?
 パソコンを閉じる前にポム爺さんを検索する。
「ああ」
 翌日、教室にハシムニカを見つけて胸を撫で下ろした。
「昨日メールに入ってこなかったじゃない」
「ドラム缶ストーブについて調べててな」
 教室を見回してから声を潜める。
「朱莉と香瑠愛、田舎のおばあちゃんちにいるんだよ」
「俺の言った通りだろう」
「大豆育てるって」
 大豆栽培にはあんまり関心が無いようで、ハシムニカはドラム缶薪ストーブでどうすればお風呂が焚けるのか、身振り手振りを交えて説明をはじめた。
「例えば俺がドラム缶で両手がなまし銅管だとするだろう」
 頬を膨らませながら両腕を自分自身に巻きつける。なまし銅管にクエスチョンマークを立てながら、分かるような分からないような。ハシムニカの真似をしながら体をくねらせた男子が冷笑している。ちょっと恥ずかしくなるけれど、朱莉もいないし、香瑠愛もいないし、このクラスで気兼ねなく話せる相手がハシムニカくらいしかいない。
 温水プールに通うようになったらしい。
「郁子も行こうぜ。おまえもどうせ部活やってないだろう」
 銛をもってプールにやってくるハシムニカを思い描いて、遠慮したい気分になる。チャイムが鳴って、プールへのお誘いを曖昧にしたまま休み時間を終える。でも、これだけは確認しておきたかった。
「ねえ、週末、また行くでしょう?」
 ハシムニカはこともなげに応えた。
「もちろん」
 担任のティーチャー淀川による社会科の授業では、毎度時事ネタが登場する。新型ウィルス対策、東ヨーロッパでの戦争、カルト団体と政治の癒着、前向きな話しは日本人選手が海外チームで活躍したことくらい。
 その日は、気候変動枠組条約締約国会議における日本パビリオンの紹介があった。冷房効率を二〇パーセント向上させるフィルム、二酸化炭素をカルシウムに固定させてコンクリートにする技術、人工光合成技術を活用して二酸化炭素を還元して再び液体燃料を製造する技術。何のことやらさっぱり分からないけれど、科学技術がクリーンなユートピアを用意してくれるものと刷り込まれる。
 それでも私たちは簡単にはいかない。柴田朱莉に色々詰め込まれてリアルなディストピアが見えているから。朱莉だったらなんて言うだろう。ポイント・オブ・ノー・リターンが五〇年後ならば、科学技術が支える素晴らしい未来を期待したいよ。到底間に合わないことを分かっていながら新しい緩和策だなんて淡い期待を抱かせつつ、甚大な自然災害を前に適応しろと求める。よくもそんなことを。
「ティーチャー淀川よ、俺たちに適応を求めるなら、もっと本気だしてくれよ。水泳の授業でさ、銛握って海に深く潜る方法を教えてくれよ。糞から堆肥作って山で大豆作る方法を授けてくれよ。どうせ間に合わない緩和策で、どう適応していけばいいんだよ」
 そうだそうだ。私は驚いて顔をあげる。教室の真ん中には拳を握って立ち上がるハシムニカの姿があった。教室が凍てつき、ティーチャー淀川は目を見開いた。
「橋本、いきなり吃驚させるな」
 朱莉のようには言葉が続かない。
「とりあえず座りなさい」
 両手で仰ぐようにして押さえ込む先生の仕草に、ハシムニカは拳を握って項垂れた。座らないのが最後の抵抗。こんな時、先生はどうするか。こっちもそのパターンは心得ている。
「気候変動への取り組みついて、みんなはどう思う?」
 自分で答えを出すよりも生徒たちで答えを導き出すことが美しいとされている。例えそれがあんたたちの仕業だとしても。
 突然のことに皆口を閉ざす。ハシムニカはちょっと変な奴だって思われているから同調しようなんてクラスメートはいない。正確には私も含めた四人組のことだけれど。朱莉も香瑠愛もいない今、みんなは私がなにか言い出すと思っているだろう。反面、あいつには何も言えないと思っている。私がなにか言わないとハシムニカだけが変な奴で終わる。
 変なのは私たち四人。四人でいれば最強。私は名前を借りて立ち上がる。
「柴田朱莉さんも、岡村香瑠愛ちゃんも、壊れていく世界に適応するために自分たちで勉強をはじめています。ここで勉強したことを活かせる未来なんて待っていないから」
 教室がざわめく。みんなは二人ともコロナで休んでいると聞かされているから。
「須賀田、柴田と岡村はコロナ病欠中だ」
 やっぱり私たちが変なのかな。どっちにしてもこの教室は居心地が悪い。
「ハシムニカ、もう行こう」
「おう」
 私たちは黒板に背を向けて教室の出口を目指す。
「こら、二人とも席に戻れ」
 ハシムニカは突然高笑いをあげる。そして、私の手を取って走り出した。その手は熱を帯びてとても力強く、私はお父さんを思い返していた。

 再び私たちが田舎のおばあちゃんちの門戸を開けると、木枠で囲まれた筵の上で香瑠愛が寝ていた。
「おまえ何やってんだ?」
 見下ろすハシムニカの顔に香瑠愛の顔が華やぐ。
「発酵ベッドは温かいよ。稲藁、落ち葉、米糠なんかを積み上げて水を撒いただけなんだけどね。放っておいたら火傷するくらいに熱くなる。だから、踏んだり、こうして押し潰してあげて適温にするの」
 本当に眠っていたようで身体を起こして寝惚け眼をこする。
「ハワユ―?郁子」
「アイムファイン。アンジュ―?香瑠愛」
「なんでおまえら英語なんだよ。朱莉は?」
「ポム爺んとこで大豆の収穫手伝ってるんじゃない」
「もうできたのか?」
「まさか。種まきだって来年の春だよ。今のうちに堆肥を作って土づくり」
 種まきが来年の春で、来年の今ごろが収穫時期ということか。随分先の長い話のように思えて、なんだか途方に暮れる。
「土壌って知ってる?」
 香瑠愛が問いかける。
「土と違うの?」
 筋の通った鼻の前で人差し指が振られる。そして、地球が生まれて、マグマが固まってできた岩の隙間に微生物が住み着き、動植物の死骸が分解されて堆積していくまでのストーリーを三十秒で語った。
「おまえ、変わったな」
「肩に掛けてるのなに?」
 ハシムニカは丸く束ねたなまし銅管を担いでいた。ゲームもトレカも漫画本も売り払って、ホームセンターで買えるだけ買ったという。
「おまえらのために風呂を作りに来たんだろ」
 門戸の向こうから朱莉の声が響いた。
「郁子、ハシムニカ」
 朱莉の横にはもう一人、真っ白な髭を蓄えた老爺がいた。一緒にドラム缶を転がしながらやってくる姿は一目でポム爺だとわかる。
「いいドラム缶あんじゃん」
 それは焼却炉に使っていたという下小窓の付いたオープンドラム。ハシムニカはすぐに飛びついてポム爺と一緒にそれを起こした。
「なんかまた餓鬼どもが増えたな」
「お爺さん、お世話になります」
 私の言葉に朱莉が両手で口をふさぐ。
「馬鹿言うな。これでも四二だ」
「嘘、お母さんより若い」
「嘘なんか言わねえよ」
「別に噓つきだって言いたかったんじゃなくて」
「嘘つきから農業教わんのか」
 なんだか面倒臭そうなヒトだ。朱莉と香瑠愛は目を合わせて苦笑いを浮かべている。ポム爺は木枠の筵をめくって、未成熟な堆肥を指先で崩す。
「枯葉でも集めてもっと嵩増やしておけ」
「へえい」
「土さえ作ってしまえば、大豆なんて適当に撒いておけば育つ。あいつは根粒菌と共生してるからな。空気中の窒素をアンモニアに固定して栄養にする。無駄に化学肥料なんて入れると、葉っぱばっか茂って豆がならない」
 適当にやっても育つという言葉がなにより心強い。
「おまえは風呂を作るんだって?」
 ハシムニカはドラム缶ストーブになまし銅管をぐるぐる巻きにして湯沸かし器をつくる構想を語る。
「なんであれ男手ができてよかった。取りあえず水でも汲んで来い」
 ポム爺が指さす先にはポリタンクの積まれたリアカーが置かれていた。湧水が汲める神社があると聞いていたけれど、日々の水を汲みに行かなければならないというかとか。
「けっこう歩くよ」
 四人組はポム爺に見送られて、リアカーを引いて歩きはじめた。
「ご飯どうしてんの?」
「今は、ポム爺を手伝って食べさせてもらってる。香瑠愛がピザとか頼むときもあるけどね」
「帰らないの?」
「今は考えてない」
 香瑠愛も頷く。親が許してくれるのが不思議でならない。ポム爺が朱莉のお母さんに連絡しているのかな。香瑠愛はスマホで連絡が取れているのだろうけど。
「ハシムニカは明日帰るよね」
「俺は風呂を作ったら帰るよ。プール行って素潜りの特訓もしなければならないしな」
 私はホッと胸を撫で下ろす。それでも、あんなことがあったからどんな顔をして学校に行けばいい。
「トイレはまたスーパー?」
「庭。全部かき集めて堆肥にするよ」
「マジ?」
 さすがに驚いて私とハシムニカは声をそろえた。香瑠愛が寝ていたあの筵の下で発酵していたのだろうか。
「無理ならポム爺の家だってある。ちょっと面倒臭いヒトだけど」
 私には朱莉や香瑠愛ほどの覚悟はない。お母さんを困らせることはあっても、越えられない一線がある。ハシムニカだってきっと一緒。
 大人たちのやる気のない態度に憤る。反面、いまいち実感を伴わないこの危機が自分たちの思い過ごしであればいいと願っている。
 ハシムニカは私と教室を飛び出した時のことを英雄譚のように話しはじめた。案の定、ハシムニカが気持ちよく話し終える前に、朱莉は憤りを爆発させた。国のシステムなんて戦争に負けるくらいのインパクトがないと変わらない。この国で市民運動が実ったためしなんてない。全部、歴史の教科書に書いてある。これから起こる戦争に備えなければならない。東ヨーロッパ発の戦争じゃないよ。ニンゲン対シゼン。圧倒的不利な戦いに送り出された私たちはとにかく生き延びなければならない。その先にシステムチェンジと真の復興がはじまるのだから。
 私には朱莉が怖い。
 私にはまだ答えが出ていない。
 私はただ右往左往しながら居心地のいい場所を探し求める。

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