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生物学的な性は、何かを可能にするものであり、何かを命じたり禁じたりするものではない


女の子は理系が苦手だから文系に行った方がいいとか、
育児は女性が得意なんだから女性がすべきとか、
そういう考え方に触れるたびに
「なんっか、もやもやー」
としていたところ
歴史学者のユヴァル・ノア・ハラリの文書を読んでスッキリしたので、ご紹介します。

曰く、
「生物学的作用は可能にし、文化は禁じる」
とのこと。
(サピエンス全史 上巻p187)

生物学や進化論の観点からは、
男や女といった性差は
「何かを可能にする」のみであって、
「何かをしてはいけない」
ということを命じることはないそうです。

例えば男性は筋力があることによって力持ちだが、
そうだからといってかならずしも
肉体労働や戦いをすることによって生存競争をすることを強いられない。

女性が子宮を持っていることは、
女性に子どもを産むことを可能としているが、
だからと言って女性が政治家などになって集団を率いることを
禁じているわけではない。
(むしろそういうことを首尾よくやってのける女性もいる)

つまり、生物学上、
「男性だから得意、女性だから得意」
ということはあったとしても
だからといって「これをやらないとだめ、これをしちゃだめ」ということはない。

それは我々が生物として与えられたミッションではなく、
人間が作った文化なんだ、ということです。

私たちは生物としての性によってなんら義務付けられていない。

家事育児をうまくできることも、
女性らしくふるまえることも、
何一つ、
「生物として」マストではない。

Not destined、
運命付けられていない。

それは「社会の中での必要なことだ」
とおもうことで十分だと。

「女性としての天命を果たさなきゃ」的なことなんて
何一つなかったんだなって思って、スッキリしました。

普段から接する
いろんな「女性だからこうしなきゃプレッシャー」が、
単に文化的、
社会的なものだとしたら、
まあ自分と周りが生きていく上で帳尻が合う範囲で
うまくやればいい話しであって、
できなくても神に恥じることでもなければ、
生物として間違っているってことはないってことですね。

ハラリ自身が同性愛者ということもあるのか、
このジェンダーの章はかなり厚めにかかれています。

読んでいてスーッと楽になるので、
「性による役割分担」にもやっとしている方はぜひ読んでください。

(※上記はサピエンス全史を自分なりに解釈して書いてますので、ハラリが言っている正確なニュアンスはぜひ原文をあたってください)

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