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オークションからみる、オンライン化と美術館の存在意義について

サザビーズのヴァーチャル・オークションにおいて、フランシス・ベーコンの作品が8450万ドル(おおよそ90億円)で落札されたという記事がFacebookで流れてきた。

デジタル・プラットフォームによる入札だけではなく、電話での入札も取り入れた今回のオークション。

全体のロット数80に対して、総売上は3億6320万ドル(見積:2億6210万〜3億6840万ドル)、落札率は93.2%。現代アートに絞るとロット数30に対して、売上高2億3490万ドル、落札率は96.7%であった。

驚異の落札率もさることながら、電話とデジタル・プラットフォームによる攻防戦というのも興味深い。

今回のオークションは世界的にコロナが蔓延する前に企画されたもので、コレクター達は入札前に作品を直接は見ていない。また、時差によって深夜や早朝に催されることも懸念事項としてあったが、結果的には大成功であったといえよう。

もはや、直接作品を見なくとも、オンライン上で超高額作品が売買されることはなんら不思議ではない。むしろ世界中からリアルタイムで発注できること、これまで現地に行けなかった新規顧客の参入がオンラインによって可能となっただけである。

オンラインによって価格が高騰する傾向は、一般的なオークション(ヤフオク!など)でも指摘されていることで、みえない相手との競争意識がより顕著に働き、値段をより吊り上げることによるものであろう。

オンライン化によって、より顕在化したもの。それは「富の集中」ではなかろうか。つまり、すでに市場価値が定まっている作品については、オンラインとなったところでその価値が大きく下がる可能性は低く、むしろ受け皿が広がったことで受ける恩恵の方が大きいであろう。

一方で、低価格帯、特に新人アーティストの作品の動向がさらに鈍くなりそうな気がしている。市場価値も定まっておらず、将来的にみて資産価値が上がるかどうかを判断する目=審美眼がオンライン上ではその効力が遺憾なく発揮される、とは言い難い。

より価値のあるものに資金が集中し、末端には行き届かない、現代における資本社会の縮図を顕著に露呈する結果を招きそうな気がしてならない。

海外で行われているのか調べられてはいないが、もしも「新人アーティスト・発掘オークション」といった催しをオンライン上で実施した場合、売上高や落札率はどの程度になるのか興味深いところではある。

ただし、低価格であったとしても売れるとは限らない。むしろ少し値が張る方が売れ行きがよかったりもする。値段が信用に、そして価値へと直結する。それもそのはず、資本価値≒紙幣価値とは信用によってのみ成り立っているのであるから。

また、価値とは需要と供給によって決定付けられるものであり、絵画のように基本的に1点もの(原画)であるためそのものの価値が上昇する。

複製時代の芸術(写真など)はその価値を担保するためにエディションを切り、供給量をコントロールしている。これも、コントロールする側の信用によってその価値が担保されることになる。

アートと資本主義とは切り離すことはできない。資本主義から脱却するためには、作品を売らない、審美性を重視するくらいであろうか。アーティストが亡くなってから高額で取引されそうではあるが。

少し話しはそれるが、世田谷美術館において、2020/07/04〜08/27まで「作品のない展示室」と題する展示?が催される。

作品を展示しない、展示室を開放することで美術館のあり方、機能性、空間的な存在意義を問うているのであろうか。建築のアートとしてみれば、空間設計的に「見せる」ように作られているはずなので、そういった視点からみることもできそうだ。

この試みはおそらくコロナがなければ、実施されなかったであろう。とはいえ、

実際に世田谷美術館では、開館以来、音楽会やダンス公演をはじめ、さまざまなプログラムを開催し、このたびの「作品のない展示室」でも、ギャラリーに「建築と自然とパフォーマンス」と題したコーナーを設け、これまでの活動の一端をご紹介いたします。

とあるように、ただの空間展示だけには留まらない感があるのは、いささか残念でならない。

新たな、集客効果の高いであろう企画・展示を打ち出すだけのモデルケースはどこかで限界を迎えそうな気がする(すでに迎えている?)。

数多くの作品をコレクションしている美術館だからこそ、テーマで作品を寄せ集めるような展示をしていないで、新たな見立て(解釈)で過去と現在を接続するような、そんな展示を日本でも是非とも数多く催してもらいたいものである。


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