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「#13 市民プールの匂いが自転車を加速させる」



 自転車用のチャイルドシートに座る僕の視界は、父親の背中で遮られ良好ではない。いっそのこと目を瞑って、聞こえてくる音と、漂う匂いと、肌に触れる感覚を頼りに、自分の周りに広がる景色を把握しようと試みる。自転車が前方に少し傾きスピードを増すと、ぬるく漂っていた空気が頬をさらりと撫で、油の切れた耳触りなブレーキ音と共に、電車の通り過ぎる音が頭上で大きく響いた。駅前の坂を下ってから高架下を通り抜けるこのルートは、間違いなく市民プールに向かう時のものだ。そこから緩く大きなカーブに入ると、中華屋のいい匂いが鼻をくすぐり、おもちゃ屋のゲーム音が近づいてくる。絶対に注文するイカリングフライと、大好きなトランスフォーマーのおもちゃを頭に浮かべなら、それでも目を瞑り続けて進んで行く。

 一瞬の静寂と横から吹き抜ける風が、ザリガニ捕りで評判の川に差し掛かったことを知らせてくれる。川に架かる橋を自転車で渡りながら薄目を開けると、橋の下にはゴツゴツとした岩場が川を挟んで伸びている。僕は少しだけチャイルドシートから身を乗り出し、ゾクッとしたいつもの感覚を味わう儀式を済ませてからまた目を瞑る。
 金網のフェンスにボールの当たる音が右側から聞こえる。この広場は公園というより砂地のグラウンドのようになっており、サッカーでも野球でも何でも出来る遊び場なのだが、フェンスが低いせいでよく道路の方にボールが転がり危なかった。最近新しくなった高いフェンスの効果は激しく叩きつけられるボールの音を聞く限り抜群のようだ。

 心地よく走っていた自転車が減速して動きを止める。きっとこれは市民プール近くの大きな国道で、よほど運が良い時でなければ信号に捕まってしまうのだ。もうあと少しで市民プールに到着なのに、僕はいつもこの大きな道路と中々変わらない信号をもどかしく感じていた。
 車の流れる音が止み自転車がグンッと勢いよく走り出す。国道を渡ると最後に待ち構えるのが急勾配の坂であり、そこを勢いよく上る為にはここでどれだけ助走をつけられるかが勝負の鍵となってくる。スピードを上げる自転車が勢いよく後ろに傾き車体が左右にブレ始める。どうやら父親も本気のようで、坂に差し掛かった瞬間に立ち漕ぎを発動させたようだ。僕は目を瞑りながら激しく揺れる自転車の後ろで、少しでも風の抵抗を軽減させようと必死に前傾姿勢でバランスを取る。
ふと無重力に似た感覚に全身を包まれる。坂を駆け上がり、その頂点に達した瞬間であり、それと同時に塩素消毒剤と水とが絡み合った市民プールの匂いが微かに僕の鼻を通り抜けた。

 来た!ついに来た!この匂いを嗅いでしまったらもう興奮を抑えることは出来ない。そんな僕の気持ちに呼応するように自転車も勢い良く坂を下って行く。あの耳触りなブレーキ音がほとんど聞こえないのは父親だってテンションの上がっている証拠だろう。僅かに光を感じていた視界がサッと暗くなり暑さが少し和らぐ。この緑道を抜ければ左手に念願の市民プールが姿を現すのだ。顔を上げ薄目を開くと、濃い緑のトンネルの隙間からキラキラと光が差し込んでいる。プールに匂いがどんどんと強くなり、子供たちのはしゃぐ声が風に乗って聞こえて来る。僕は我慢出来ず両足で空気を後ろに蹴り出し自転車の加速を生み出そうとする。さっきよりも匂いはもっと強くなり、子供たちの声はさらに大きくなって澄んだ空を高く昇り、自転車は風を纏い全ての抵抗を打ち消して滑るように進み続ける。
緑道を抜けたと同時に大きく目を開くと、太陽の光はゴールを祝福するように僕を照らし、市民プールから響く声は僕に向けた歓声のように聞こえた。駐輪場の空きを探しゆっくりと進む自転車はウィニングランのようで、僕は充満した市民プールの匂いを胸いっぱいに吸い込んだ。

 一人で自転車に乗れるようになってからも、友達とプールに行くようになってからも、僕は市民プールの匂いを嗅ぐと変わらず自転車を加速させた。もう市民プールに行かなくなっても、東京で一人で暮らすようになってもこの衝動は抑えられなかった。
 自転車に乗らない今でもふと市民プールの匂いで足速になることがある。知らない住宅街の角を右に曲がり、左に折れ、息を切らして進む。けれどその先にはかつて市民プールとして営業していた跡だけがあり、声援も祝福も与えてくれることはない。
 僕はもう何処にも辿り着けないかもしれないなんて気持ちになるけど、それでも市民プールの匂いに、やっぱり僕はこれからも突き動かされるのだろう。その衝動が消えることがないのなら、たとえたどり着く場所がもう無いとしても、その加速の中に、生きているという実感さえ伴っていれば力強く進んで行ける。
市民プールの匂いはいつだって僕を加速させるのだ。


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