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死にたいとつぶやいて生きる。

座間の事件を受けて、政府はツイッターの規制も視野に対策を始めるとのこと。今はまだ無罪推定の働く被疑者段階で、事件に絡めて議論するのは難しいけれど、ツイッターで死にたいとつぶやく若者のことについて、考えをまとめておこうと思う。


ツイッターに溢れる声

前提として、僕は死にたいとつぶやく若者と日常的に接している。そう言って自分を傷つける子も、実際にいのちを落とす子も、中にはいる。若者との接点はさまざまで、児童相談所や女性相談所、福祉事務所、家庭児童相談室といった行政機関から声がかかることもあれば、そだちの樹が2015年に始めたプロジェクト「ここライン」に本人から連絡が入ることもある。ここラインは電話とメールのふたつの窓口を用意していて、新規の相談は年間70件ほど、相談対応の延べ件数は約900件に上る。

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ちなみに、ここで「若者」と言うときは、おおむね10代後半から20代前半までの層をイメージしている。

ツイッターでも、死にたいというつぶやきによく接する。そんなヘヴィなつぶやきは見たことがないと言う人もいるかもしれないが、僕にとっては、ほとんど日常の出来事と言ってもいい。こちらから探し回らなくても、僕が発信している情報とマッチングしているのか、ツイッターがそうした若者へのフォローを勧めてくる。気になってツイートを追ってみると、次々に生きづらさを訴えるユーザーが勧められてくる。気がつけば、タイムラインはネガティヴなつぶやきで埋め尽くされる。

探すつもりがなくてもこんな調子なのだから、探し回れば出会うのは容易だ。彼らがツイートしそうな言葉を検索すれば、いくらでも若者たちとつながることができる。


若者たちのいま

では、若者たちはなぜ、そんなつぶやきを発信するのか。その理由は、大づかみにするなら、次のふたつに整理できる。

ひとつは、死にたいとつぶやく若者の背景にかかわる。死にたいと思う理由は概して単純ではない。いじめ、DV、虐待といった比較的明確な被害体験もあれば、学校や家庭で「なんとなく」うまくいかないという、特定の難しい悩みもある。知的障害や発達障害のある若者が、そのスティグマに悩んでいることもある。そして多くの場合、これらの事情は折り重なって若者にのしかかる。

悩ましいのは、これらの事情を取り除くのが容易でないことだ。取り除くような性質のものではないと言ったほうが正しいのかもしれない。たとえば虐待を受けているとして、家から飛び出せば事が収まるかといえば、必ずしもそうではない。保護を求めるのはそれほど難しくないが、しばらく学校に通えなくなるし、遠方に避難することになれば、退学も考えざるを得ない。仮に学校に戻れたとして、虐待を受けて逃げていたなんて、重すぎて友だちに言えない。

虐待が関係性を奪うというのは、こういうことだ。家に残って殴られ罵倒され続けるか、家を出てすべてを捨てるかという残酷な二者択一を迫られる。身動きの取れない苦しさは、ある時は憎しみに変わり、ある時は絶望に変わる。

いじめにも、同じように関係性の途切れと選択肢の乏しさが見て取れる。いじめが引き裂くのは、必ずしも友だちとの関係に限られない。教師や家族から「あなたにも責任がある。」と言われる事態は珍しくない。理由を明かさずに学校を休めればいいのだが、日本の学校は、不登校に対して強烈なプレッシャーを与える。誰にも言えない、だけど学校を休むわけにもいかない。そんな空気を読んで、若者は今日も学校に行き、被害を受け続ける。ここには、安全に過ごしたいという基本的なニーズを満足させる選択肢がない。

ある若者は、こんな状態を「生き地獄」だと言った。生きていることが何よりも苦しいという中で、死にたいと願うことは容易い。

そして、この願いを発信することは、現実世界ではたいへん難しい。家庭や学校で公言すれば周りは騒ぎ出し、関係性を取り戻すチャンスをかえって遠ざけるかもしれない。背景を理解せず、自分を非難する人が出てくるかもしれない。誰にも言えない悩みは、こうして深く深く、内側に沈積していく。


匿名性がつくる、もうひとりの自分

若者たちが死にたいとつぶやくもうひとつの理由は、ツイッターの仕組みにかかわる。140字以内の短文であること、アカウントは原則として公開されていること、非公開のアカウントを作成することもできること、複数のアカウントを作成できること、匿名で利用できること。特に重要なのは、最後に挙げた匿名性と、その匿名性を利用して現実世界の属性を隠したアカウント「裏アカ」の存在だ。

幾重にも困難を抱えた若者たちは、もはや苦しいと訴えることさえ苦しい。しかし匿名であれば、その苦しさを思いきり発信することができる。ツイッターで発信した死にたいという声は、自分と同じ感情を抱えた不特定多数の誰かに届き、受け止められる。自分の内側に溜め込んできた、今にも溢れそうな苦しみを唯一、そこでは解放することができる。

ソーシャルメディアは、基本的にフェイス・トゥー・フェイスの関係を前提としない。だから、どのメディアも少なからず、現実世界と切り離した自分を発信できる機能を備えている。実際、フェイスブックでアカウントを次々に作ったり、LINEでアカウントの削除を繰り返したりして、自分の見せ方をコントロールしようとする若者に出会うことはある。しかしツイッターは、そうした機能を本来的に備えている点に特徴がある。若者が死にたいとつぶやくプラットフォームとして、ツイッターの優位性は否定しがたい。


死にたいと思うことと、死のうとすること

若者がツイッターで死にたいとつぶやく理由として、関係性と選択肢が奪われているという若者側の事情(これは若者の周辺に問題が存在するという意味であって、若者個人に責任があることを意味しない。)と、匿名性によって現実世界から容易に自分を切り離せるというツイッター側の事情が関係していることを述べた。しかしそれは、死にたいとつぶやく理由であって、死ぬ理由ではない。死にたいと願うこと、つぶやくことと、実際に死に向かって行動することとの間には大きな隔たりがある。

死にたいとつぶやく若者と、そのツイートを受け取った人との間には、関係性が生まれる。若者たちは、生きづらさを結節点にして,現実世界で失ったはずの関係性を仮想空間で取り戻そうとする。それは現実世界からの逃避ではない。互いに理解しあえる他者と関係をつむぎ、生きようとする人間らしい営みにほかならない。死にたいという声には、生きたいという願いが添えられている。

政府が考えるツイッターの規制とは、果たしてどのようなものなのだろうか。若者を危険に引きずり込むのを防ぐというのは聞こえがいい。しかしツイートを受け取った人にそのつもりがあるかどうかは測りようがない。そうなると、もっと早い段階、つまり死にたいとつぶやくこと自体を規制するしかない。死にたいという声、助けを求める声を拾う網をかけるしかない。

その制約が何をもたらすかは明らかだ。若者は、もう死にたいとつぶやくことができなくなる。ようやく見つけた関係性は再び途切れ、生きたいという願いを届ける場は失われる。それがどれほど苦しいことか、もう分かるはずだ。

若者は、死にたいとつぶやいて生きている。もうこれ以上、若者が生きる場を奪うのはやめよう。死にたいという声を受け止めて、社会につなごう。そう思って、僕は今日も若者の声を待っている。

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