三島由紀夫「朝倉」ほか

昭和十九年―一九四四年、三島由紀夫十九歳の作品。
解説から引くと「平安後期の散佚さんいつ物語「朝倉」を藍本らんぽん(注:原典)としたもの。」

さて、散佚物語と聞くとついついロマンを感じてしまう。ロマン結構結構。
だが実際は物語に目新しさや個性が少なく単に自然淘汰された作が少なくないとか。 
この「朝倉」も同様。朝倉きみと中将の悲恋物語だが、この物語特有の個性は感じられず、三島の作品としても強い魅力は見当たらない。

ではなぜ紹介したか。最後に入水した朝倉君の描写を引用したかったのだ。

あふみの海あはづの浜の片ほとりに落花に紛れて流れ寄ったしかばねがあつた。小柄な女で年のころは廿歳はたちまでに二つ三つあらう。水に半ばつかつている為か、顔は一段と照り耀かがやくばかりにみえる。あしの下葉に絡みついた髪がこの美しい船のともづなであつた。寝乱れ髪に等しくてさう凄惨な感じがしないのも、人並以上の豊かな黒髪の持ち主だからである。胸は少しはだけてゐるが人の仕業ではあるまい。春の行水ゆくみづが自らゆるめたものと思はれる。さゞ波がその胸の上で打ち返すと、神々しいやうに白くゆらめいて、ほとんど透明に感ぜられる位である。(略)

 

三島由紀夫は死を書かせたとき、最もその才を発揮する作家でないかと思う。


谷崎潤一郎「美食倶楽部」。「朝倉」の死の気配は欠片もない。食べまくり、生きまくる―人間讃歌のユニークな物語である。

会員五人の美食倶楽部は、すでに飽食の兆しが芽生えていた。メンバーの一人、G伯爵は新たなる美味を求め支那(注:中国)人たちのグループに接近し支那料理の秘伝を探求する―
……話はそれだけだ。中身も何もあったものではない。
ではなぜ扱うかというと、以下の描写を引用したかったのだ。

支那料理のグループには会長と呼ばれる男がいる。彼の許可なくしては支那料理の秘伝は決して外に漏らすことができない。何しろ彼の料理は

(略)上は人間から下は昆虫に至るまでみんな立派な材料になるのです。(略)われ/\に木の皮を食ひ鳥の糞を食ひ人間の涎を食ふことを教へたのは、恐らくあの会長が始まりでせう。(略)食物は(略)食器の外側へぬる/\と塗りこくられることもあります。さうして或る場合には、何処どこまでが器物で何処までが食物であるか分らないことさへないとは云へません。其処そこまで行かなければ真の美食を味はふことは出来ないと云ふのが、会長の意見なのです。……」

中国の人はとても食いしん坊で、「足があるものはテーブル以外、翼のあるものは飛行機以外は食う」という言い回しがあるほどだとか(ただどのくらい実情に即しているのかは分からない)。

◯おいしそうな中国料理

(略)粘土を溶かしたやうな重い執拗しつこいソップ(注:スープ)の中に、疑ひもなく豚の胎児の丸煮が漬けてある。しかしそれはたゞ外だけが豚の原形を備へて居るので、皮の下から出て来るものは豚の肉とは似てもつかない半平はんぺんのやうな、フワ/\したものであるらしい。おまけにその皮も中身もヂエリーの如くクタ/\に柔かに煮込んであるのか、さじを割り込ませるとあたか小刀ナイフで切取るやうに、そこからキレイにぎ取られる。見る/\中に、四方八方から匙が出て来て豚の原形は、一塊づゝ端の方から失はれて行く。まるで魔法にかゝつて居るやうである。

谷崎潤一郎は太平洋戦争について―知る限りでは―ほとんど発言をしなかった。高村光太郎や谷崎と妻を取り合った佐藤春夫のように翼賛体制の熱狂に呑まれはしなかったが、時代に抗して反戦を叫ぶわけでもなかった。
だが、「美食倶楽部」を読んでいると、そこにはただ中国という異文化に対する素直な憧れと驚きだけがある。
筆者は谷崎にはなぜこの美食の国を滅ぼす必要があるのか理解ができなかったと思うのだ。

「美食倶楽部」を読んでいると不思議とほのぼのした気持ちになってくる。そして何かを口に運んで頬張りたくなる。
ぜひ読んでくれると嬉しい。







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