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長いトンネルからようやく抜け出せた ~S先生との出会い~

「再会と告白」「『どうしていじめをしたのか?』を聞いてほしかった」で書いたように、私はほとんど楽しい記憶のないまま4年生を終えた。そして、5年生になってクラス替え&担任替えがあった。5年生の担任は、新卒2年目のとても若い男の先生。私は、男の担任の先生は初めてで、最初は少し戸惑った。そして、私は4年生の事件をまだ引きずったまま、新しいクラスの席についた。


ハチャメチャに元気な先生

S先生が新卒として学校に来たのは、私が4年生の頃。先生は最初1年生の担任になったが、新学期がスタートしてすぐ、先生のクラスは学校の中で注目の的となった。

なんと、学校の定番「起立、礼、着席」の挨拶の代わりに、当時CMで誰もが知っていた「ピッカピッカの~いちねんせい!ビシッ」というフレーズを毎回全員で立って合唱していたのだ。
ピッカピッカの1年生が、実際にいちいち「ピッカピッカのー」を合唱するのがおかしくて、あっという間に学校中の噂となった。私たち上級生はそれを一目見ようと、1年生の教室の廊下に集まった。

そんなこんなで、やたらと元気な新卒の先生だなあ、と子ども心に半分羨ましい気持ちで横目に見ていた。そして、そのとびきり明るい先生が、どんより影を背負った私の5、6年生の担任となった。

先生は今まで接してきた「先生」とは全く違う先生だった。子どもたちを上から見る「先生」ではなく、いつも子どもたちの中心にいるお兄さんのような存在。お兄さんといっても、「優等生」な感じではなく、「やんちゃなリーダー」的存在だった。

校舎の中にすずめが迷い込んできたら、授業をほっぽりだして、先生先頭にクラス全員で学校を駆けずり回って捕獲。授業中の隣のクラスの先生が顔をしかめてこっちを見ていた。雪が降ったら、1日授業なしで雪遊び。阪神タイガースが連勝したら宿題なし。

ハチャメチャで、ある意味誰よりも悪ガキな先生に、私は最初こそ戸惑ったが、先生の持つ若さやエネルギー、純粋さに次第に惹かれるようになった。

そして、先生はあっという間にクラスの子どもたちにまみれ、おそらく、最も冷めた子どもであった私をもすんなりと巻き込んで、ひとつのクラスをまとめていった。

先生は人気者で、休み時間はいつも子どもたちに囲まれていた。私は先生と話がしたかったけれど、キラキラと輝いている先生になかなか近づくことができなかった。

先生と私を繋いだ「自由勉強ノート」

「先生と話したくてもなかなか話せない」そんな子どもがいることを知っていたのかもしれないが、先生は子どもたち一人ひとりとやり取りする「自由勉強ノート」を始めてくれた。「自由」という名の通り、提出するもしないも自由。中身も勉強しようが、日記を書こうが、絵を書こうが自由。

先生になかなか話しかけられなかった私は、自由勉強ノートなら遠慮なく自分を出すことができた。漢字を書いたり、気になる新聞記事をスクラップしたり、調べものをしたり、一応「勉強」らしい内容でページを埋めた後、ふだん先生に聞けないことを「質問コーナー」として書いた。

「先生に兄弟はいますか?」「趣味は何ですか?」「学校で楽しい時間はいつですか?」など、他愛のないことを聞いていたが、先生はどれも丁寧に答えてくれた。

私はその「自由勉強ノート」が大好きになり、ほぼ毎日先生とノートを通じてやり取りした。

先生とのやり取りを重ねるうち「自由勉強ノート」は、私と先生との交換日記のようになっていった。そして、先生に質問するだけでなく、私も自分のことを恐る恐る書くようになった。先生との距離は明らかに縮まったが、それでも私はどうしても聞きたい質問が書けずにいた。それは先生から見て、私はどんな子どもに見えるのだろうか、という質問。

私は自分が皆にどう見られているかを知っていた。そして、私が4年生の時に起こした事件の一部始終は、おそらく、前の担任から申し送りされて、先生も知っているに決まっている。でも、そのことを疑いたくなるくらい、先生はなんの傾きもなく真っ直ぐに私と接してくれた。だから、私はいとも簡単にそのままの「私」に戻れた。そのことも意識しないくらい。

5年生も終わりになり、先生との「自由勉強ノート」のやり取りも1年近くになった。そして、ようやく私は勇気を振り絞って、自由勉強ノートに自分に関する質問を書いた。

「先生は、はじめて私を見た時どう思いましたか?」

「先生がオハ(私のニックネーム)を初めて見たのは5年生になってからだと思う。4年生のときは目立ってなかったから、どこに居たかわからなかったよ。今なら、ワイワイガヤガヤしていたら、そこに必ずオハがいるもんね。初めて見たときはかわいくて人形みたいだった。でも、おとなしそうで、すぐに泣いちゃわないか心配だったな。」

先生のその回答を見て、私は学校に居たのにあやうく泣きそうになった。実際、先生と出会った頃の私は「泣き出しそうな」気持ちを抱えて学校に行っていた。それに気づいていてくれたのかな、と思い嬉しかった。

そして、「4年生のオハなんて知らないし、どうでもいいんやで」そう言われているような気がした。そうだよね。もう私はあの頃の私じゃない。

そして、自分が「可愛げのない子ども」であったことを自覚していた(実際、大人に「かわいい」と言われたことがなかった)私は、「かわいくて」という言葉になんだか信じられないような、夢のような気持ちになった。

先生のその回答を見て、私はようやく4年生の事件から決別することができた。

そして、先生の書いていた通り、おとなしく引っ込み思案だった私は、友達の輪の中に入って、ワイワイガヤガヤできるほど、元気になっていた。

先生と私と子犬との忘れられない1日

とある日、いつものように登校していた私は、通学路の途中で捨て犬と思われる子犬を見つけた。当時私は大の動物好きで、自分の家でも色々な生き物を飼っていたり、近所の野良犬、野良猫を餌付けしたりしていた。

集団登校だったので、気になりながらもその犬を抱き上げることはできず、後ろ髪引かれる思いで学校に着いた。案の定、授業は上の空。

唯一の長い休み時間である20分休憩になって、私は我慢できずに先生に相談してみた。

「朝見た犬が弱っていたのがどうしても気になるので、犬の様子を見に戻ってもいいですか?」

当然、一度学校に入ったら、下校まで外に出ることは禁止されていた。でも、ダメ元でもいいから、我慢出来ないくらいの気持ちを聞いてほしかった。そうしたら、驚いたことに先生は休憩時間に戻ってくることを条件に、こっそり「内緒やで」と裏門から私を外に出してくれた。

正直、許可されるとは思っていなかった。許可されて嬉しいと同時に、本当にいいの?!と戸惑いもした。私は、給食のおばちゃんに見つからないように背をかがめ、心臓をバクバクさせながら犬のいた場所へ走った。

小学生が誰一人いない午前中の街を走る特別な感覚。何より、先生が自分を信用してくれた、という喜び。眩しく晴れたその日の景色と一緒に、はっきりくっきりと私に焼き付いている。

結局、犬は拾われたのか保健所に送られたのか、その場所にはいなかった。必死に引き返して、何もなかったように教室に戻る。先生は「時間どおり戻ってきて偉かったね」と私の肩を叩いてくれた。

今、もし私の息子が同じことを先生に言ったら、学校のルールや子どもの安全など、いろいろな理由で100%許されないだろう。30年以上も前は、学校も社会も今よりは良くも悪くも緩やかだった。

でも、私にははっきりと子ども心に「無理を言っている」という自覚があった。先生はどんな気持ちで私を行かせてくれたんだろう。ちゃんと戻って来れなかったら、いろんな責任を取るつもりだったのだろうか。

「人に信用してもらった」。

たった12歳のちっぽけな子どもでも、そのことに大きな責任と喜びを感じていた。そして、私を信用して送り出してくれた先生に、心から感謝した。

先生からの最後のメッセージ

先生との2年間を過ごし、引っ込み思案だった私はどんどん変わっていった。一番大きかったのは、自分のことが嫌いでは無くなったことだと思う。そして、自分の考えに自信を持てるようになり、それを表現することもできるようになっていた。

小学校の学期末にもらう通知表には、生活面について「自分の考えたことをはっきりいい、進んで実行する」という項目がある。評価は◎○△の三段階評価になっているが、5年生の1学期には△がついていて、先生のコメント欄も「もっと進んで自分の意見が言えるようにしたいですね。クラスの中にもっとぶつかってください」とあった。

そして、先生との2年間を経て、6年生最後の通知表に先生はこんな言葉をくれた。

「自分の言いたいことがはっきりみんなの前で言えるようになりましたね。そして、明るく笑顔で進んで何事も実行できるようになりました。この2年間で本当に変わりましたね。それは、オハが自分の力で変えたんだ!偉いと思います。優しい大人になってください。」

この言葉をもらったとき、自分でも「私はもう大丈夫」だと心から思えた。卒業式は先生と別れるのが辛くて、死にそうなくらいボロ泣きをした。

子育て講座などでは「自己肯定感」が大切と、どこでも言われる。もちろん親との関係の中でそれを築ければベストなのだろうけど、親だって生きて行くので必死、子どもが求める形で愛情を十分に与えることができない場合もある。

子どもは親との関係だけで育つのではなく、色々な人との出会いを通じて成長していくのだと思う。私は先生との出会いで、心の中の欠けていたパズルが埋まった。

久しぶりに昔のことをたくさん思い出した作業は想像以上に辛かったが、私の原点とも言えるこの時代を見つめ直せたことは、大きな収穫になった。先生の書いた「優しい大人になってください」という言葉は、心に痛みを抱えていた私だからこそ、誰かの痛みを分かる人になってください、という意味なのだと思っている。

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