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絶望を悟るとき、それは本当の希望が見い出されるとき


この世界を超えたところに私の望む世界がある

コース(ACIM/奇跡のコース/奇跡講座)の観点から見るならば、この世界は自我の思考体系が作り上げた世界であり、まさに、罪、罪悪感、恐れが基盤となった世界であると言うことができます。

そう、コースはこの世界について、「この世界は恐れと攻撃で作られている」と教えてくれているわけです。

であるにもかかわらず、私たちはそんな世界にいながらにして、自分だけ(自分のまわりだけ)はどうにか安全、安心でいられるように、と願っています。

その(仮の)安全、安心を手に入れようとして私たちは日々あくせく生きていて、私たちはそれを「人生」と呼んでいます。

その人生は、病気であったり、災害であったり、死であったり、外側のものにいつも脅かされ続けているばかりで、まるで心休まることがありません。

この肉眼の世界を見るかぎり、世界を見まわせば、問題だらけです。

もっといえば、この世界に居る私たちは、病気、老い、死からはけっして逃れることができないわけで、そういう意味では、絶望的です。

ならば、私たちは、いったいどこに希望や光を見出せばよいのでしょう?

そのヒントとして、仏教では、この世界について「一切が苦しみである」というふうに告げているだけでなく、私たちはその一切の苦しみから脱却できるとも説いてくれています。

そしてコースも、この世界を超えたところに私たちが本当に求めている世界があると教えてくれています。

この世界を超えたところに、私の望む世界がある。(W-p1.129)

奇跡講座/中央アート出版社

ただし、私たちが理解しておかなけれならないのは、私たちはこの世界に絶望しないかぎり、この世界を超えたところに希望を見い出すことはないということです。

私が見ているこの世界には、私が望むものは何もない。(W-p1.128)

奇跡講座/中央アート出版社

言い換えるなら、私たちがこの世界に絶望するときこそが、本当の希望を見い出すチャンスなのだということを知っておくと良いでしょう。


別の道があるに違いない There must be another way.

コースが教えていることを理解するようになっていくならば、必ずと言っていいほど、絶望感、虚無感を抱くようになっていくといえます。

それというのも、そもそもが私たちの心の(無意識)深いところではすでに絶望しているからであって、それが意識化されて顕わになってくるということです。

それは、この世界の誰もが絶望しているということを意味します。

なぜなら、神から分離したという想念を信じているその結果としてこの世界にいるわけですから、神不在、愛不在のこの世界の中で絶望していないわけがありません。

つまり、私たちはみんな、その絶望を隠して生きているわけです。

ただし、コースの道を歩んでいるコース学習者にとって、この世界に絶望していくことは、むしろ、祝福であると知っておくと良いでしょう。

というのも、絶望したときこそが、本当の希望を見い出す機会(チャンス)であるからです。

なぜなら、絶望するとは、これまでの見方、考え方ではうまくいかない、希望がない、ということ知る(悟る)ということなのですから。

そのことを悟るときこそ、ようやく私たちはこれまでとはちがう見方、考え方を望むようになるといえます。

つまりは、コース学習者にとって絶望したときこそ、本当に行き詰ったときこそが、

There must be another way.(別の道があるに違いない)

というアイディア(想念)を招き入れる準備が整ったときだと言うことができるわけです。

言い換えるなら、絶望しないかぎり、私たちはこれまでのやり方(見方、考え方)でまだどうにかしようとします。

自我の思考体系のままで、つまり、狂気の思考体系のままで、まだそこに解決方法があるというふうにしてしまうのです。

自我の思考体系のままではけっして幸せにはなれないことが自覚/認識されないかぎり、それをやめようとはしません。

そういう意味で、絶望することは、これまでとはまったくちがう別の道を選択するための動機付けとなり得るということです。

別の道を選択するとは、つまり、別の思考体系を選択するということです。

その別の道(思考体系)こそが、私たちが忘れてしまったもう一つの思考体系であるわけです。

コースでは、それを「正しい心」「聖霊」と呼んでいます。

それは、自我の思考体系を脇に置くことをしたときに、招き入れられることになります。

それが、コースでは「聖霊の教師を選び直す」ということであり、それが、私たちがコースの実践で求められていることだと言うことができます。

さらにいえば、それこそが私たちにとっての唯一の希望であり、救いであるといえましょう。

聖霊の教師を選び直すとき、これまでとはまったくちがう知覚がもたらされることになるからです。

いわゆる、「聖霊の視点」「ヴィジョン」がもたらされるわけです。

聖霊(イエス)の視点から見るとき、すべてをありのままに見ることができます。

これまでの自分は、自我を教師とした状態(マインドレス/心を忘れた状態)になっていただけで、自分は外側のものに脅かされる脆弱で卑小な存在であると信じていただけだったのだとはっきりと認識することができます。

つまり、自分で自分に行っているにすぎない(T-27.Ⅷ.10:1)ということが明らかになるわけです。

それが、コースでいう「赦し」であり、そして、そこから見ている知覚を「心眼(ヴィジョン)」と呼んでいるということです。


恐れの訂正こそ、まさしくあなたの責任である

コースの教えから見れば、この世界は分離の想念によって作り出された世界なわけですが、つまりは、「天国の対極の夢を体験したい」と自分で願望して知覚しているのがこの世界であるということです。

それがどういうことなのか?というならば、

つまりは、自分で「絶望する」ことを願望したのだということです。

そのことを受け入れるとき、私たちは赦しの視点(聖霊の視点)に戻ることができます。

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