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「心」と「脳」(第二期:第6回①)

 虐待は非人道的な酷い行為という印象を当然に与えます。人権侵害であることも理解されています。しかし、虐待やマルトリートメントが、発達の途上にある子どもの「脳」を実際に変えてしまうことや、被害を受けた子どもがその脳で「世界」と関わっているということは認識されていない印象を受けます。

1.「心」を知る方法

 「心がどこにあるか」という質問に、私たちは「脳」と答えるように思われます。心臓(ハート)という場合もありますが、脳は心臓を含むほとんどすべての身体の機能に関わっています。心が「細胞」一つひとつ、あるいは身体の「外側にまで広がっている」という考え方もありますが、それは他で触れます。

 デカルトが「我思う、故に我あり」と言ったように、私たちは、思ったり考えたりすることで、自分の存在や精神、心というものを認識することができます。ただし、それは「私の心」の場合のことです。この方法が通用しない「他者の心」に対しては、心理学では「S-O-R」という図式を用いて接近を試みます。このS-O-Rは、人が何らかの「刺激(S)」をインプットして、アウトプットとして「反応(R)」をする際の、それを規定する何らかの「器官(O)」があるという想定です。刺激に引き出された反応だけから想像するしかないのが「他者の心」です。これは心が「脳」にあろうとどこにあろうと同じことです。

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 それでも、デカルトが自己の根拠とした「思う」という行為は、思考という「脳のはたらき」です。これをS-O-Rの図式に当てはめると、「S(刺激)-脳(という臓器:Organ)-反応(R)」となります。刺激が同じでも脳が違えば反応に差異が生じ、また、反応の違いとして脳の差異を想定することができます。

2.「虐待が脳を変える」は当たり前

 この「理解してしまえば当たり前」のことの原因に虐待やマルトリートメントが考えられるようになってきたという研究の紹介が第6回の要点の一つです。さらに場合によっては、私たちの認識や「子どもとの関わり方」を変える必要があることも強調します。異なる反応に同じ脳を前提とするのは的外れです。

3.伝わらないように見えても…

 また、一部の自閉症や統合失調症、認知症などのように、反応が無かったり奇妙だったりする場合には、その人のO(脳なり心なり)を私たちが想像することはさらに難しくなります。アウトプットが異質でも、仮にインプットがされていないとしても、彼らに「心」あるいは「精神」が無いとは言えません。

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 したがって、「どうせ分からない、聞こえてない」として、通常であればその人を傷つける行為を目の前ですることは、反応がある場合よりも残酷になり得ます。ただその人がそれを伝え返せないだけかもしれないからです。相手が誰であっても、その人の「心(O)」に届けたい想いを言動に込めるべきです。

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