見出し画像

マリがくれた奇跡

レストランやカフェで、何を注文するか迷う。
Amazonのタイムセール中に商品をカートに入れたまま注文確定に迷い、気づけばタイムセールが終了している。
優柔不断で、なにごとにも行き当たりばったり。

そんな私でも、10代の頃にすでにはっきりと決めていたことがあった。
それは、「子どもを持たないこと」。

自分には子どもの世話など無理。ヒト一人の人生を背負うなど無理も無理、まったくありえないことだと思っていた。そんな能力も甲斐性もないし、将来それらを獲得できるとも思えなかった。責任が重すぎる。

いつの頃からか私は、いつもうっすらと不幸だった。はっきりとそのように認識していたかどうかは別として、とにかく自分の生を肯定できなかった。
思春期の頃からは、少数の人とだけ付き合い、たいてい一人で行動し、本やマンガや音楽に埋没した“文学少女”で、どうにかこうにか生きているパンクスだった。太陽は眩しすぎたし、夏は嫌いだった。

そんな自分が人の親の役割を果たせるとは到底思えなかった。

20代になり30代の後半に至っても、あいわらず行き当たりばったりに、なんとか生きていた。
バンドはとっくに辞めていた(この選択は間違っていたと今は思う)。
音楽の媒体がレコードからCDへと移行し、CDの音質が好きになれなくて、あえて音楽を聴く気にもなれなくなっていた。
ただ生きているだけの日々だった。

語学学校へ通い始めたのは、“ただ生きているだけの自分”から目をそらすためだったのかもしれない。

フランスという国に取り立てて興味はなかったが、以前からフランス語には関心があった。なんとなくフランス語を習おうと決め、アテネ・フランセに通い始めた。10代の頃に図書館にあった全集を端から全部読み、20代の前半には絶版になっている本を神保町で探して買い漁っていた作家・坂口安吾の母校だったから、ということも学校の選択に影響していたかもしれない。

その貼り紙を見たのは、アテネ・フランセの卒業資格と教授資格を取り、サンテティックというインテンシブクラスの助手をしていた頃だった。

学校の掲示板に「ボランティア通訳募集」という求人が貼り出されていた。内容は「マリ共和国から国立民俗舞踊団のメンバーが来日し、ワークショップとライブをやるので、そのアテンドをボランティアでしてくれる人を求む」というものだった。

そこに書いてある“アフリカンバレエ”とか“ジェンベ”とかについて、当時はまったく知らなかったけれども、気づけば連絡先に電話をかけていた。

この選択が、その時の私を現在の私に導いた。

ボランティアに採用され、マリ国立民俗舞踊団のメンバー3人のアテンドをした。初めてマリの音楽と舞踊に触れた私は、その魅力にすっかり感化された。翌年には舞踊団メンバーを12人招聘するプロジェクトにも参加し、ツアーの全行程をアテンドした。
帰国する彼らを見送った空港からの帰り道、私は「マリへ行く」と決めた。

太陽が眩しすぎて夏が嫌いな私がアフリカへ行くなんて。

ところが、到着したマリの首都バマコ は驚くほど違和感がなく、むしろ懐かしささえ感じた。すぐに土地柄に馴染んで、もうずっと前からいるような気になった。ずっとここにいたいと思った。
さらに驚いたことに、突然「子どもが欲しい」と思ってしまったのだ。

実のところ、ちょうどその頃が私の生物的な出産リミットだったのかもしれない。39歳になる年だったのだから、一般的に言って子を授かるにはかなり難しい状況だった。子を持つことなど考えたことがなかったので、当時はそんなことにすら気づいていなかった。

そういう“自然の声”を脇に置くとすれば、「子を持たない」と決めていた私の心を変えたのは、他ならぬバマコの子どもたちや母親たちだった。
じゃれ合う子どもたちの生き生きとした姿や、ただ見ているだけで幸せな気分になるような母子の光景、みんなで子育てする様子が、私が唯一持っていた決まりごとを崩してしまった。

その後、私はマリで結婚し妊娠し帰国した。あらゆる妊娠が奇跡だが、39歳7ヶ月での妊娠は稀にみる奇跡なのだとあとで気づいた。
いま私がここに我が子と二人で生きている奇跡は、アテネフランセの掲示板の求人を見て電話をかけなければ起こり得なかったことだ。

最終的に離婚に至る結婚生活ではあったが、多くの学びがあったし、何より子を授かれたことには感謝しかない。妊娠も出産も極めて幸福な出来事だった。

実を言うと、今も私は自分の生にさほど肯定的になれない。
しかしそれでも、今の私はうっすらと幸福だ。

ミネコ


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?