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【長編小説】 初夏の追想 29 最終回

 ――鑑定の結果が送られてきたあと、守弥は私に電話してきた。
 私たちは、時を忘れて語り合った。犬塚夫人のこと、祖父のこと、あの避暑地で過ごした夏の日々のこと……。私は最後に二人に会ったときのことを思い出していた。
 守弥は近々私に会いに日本に戻ると言った。無性に私の顔を見たくなった、と言うのだ。
「私も君に会いたいよ。会って君に伝えたいことがいくつかあるんだ」
 私は応えた。
 
 
 
 ――ひと通り物語を語り終わったところで、正直に告白してしまえば、私は一抹いちまつの安堵さえも感じていない。書き始めたころには、この物語を終えたときには、責任を果たしたような、それでなくとも自分の中で何らかの決着を得たような気持ちになるであろうと予想していたのだが、現実には、まったく違うことになった。すべての出来事を原稿用紙の上に打ち明けてしまったいま、実際に私は、それが私に終息をもたらしてはくれないということを知った。彼らとの思い出はいまだに脈々と生き続けており、私の残りの人生にこれからも付き添っていくと言って聞かない。そして、私にここで彼らとともに生きていくことを強要するのだ。  
 抵抗しようとしまいと、どうやらそういうことになりそうだ。
 私の思い出たちは、ここにやって来た当初よりも私に付きまとい、絡みついてくるようになった。そしてそれは、苦笑を伴った胸の痛みへと移ろい、日を重ねるごとに、やがて美しい郷愁のようなものに変わっていった。
 
 ――そしていま、それらを共有することのできる相手が、私にはいる。
 
 
 私は庭師を呼んで、荒れ放題だった庭を整備した。そして、片隅にあったあの天使の像を取り除き、その場所ににれの木の苗を植えた。この木が成木になるのを私が見ることはないかもしれないが、それでもここで生きた人たちの記憶を留めるひとつのしるべとなってくれることだろう。
 さらに私は、家の修繕に取りかかった。毎日少しずつ金槌かなづちをふるい、板を運んで、壊れた壁を治していく。絨毯じゅうたんを張り替え、古い家具を売り払い、明るい色の真新しい家具を買い揃えた。
 朝には、屋敷じゅうの窓を開け放ち、風を入れる。
 
 森林の上を吹き抜けて来る初夏の風が頬を撫でる。たっぷりと陽の匂いを含んだそれが私の緩んだ皮膚の上を走り抜けるとき、同じように、記憶のひだもまた、洗い流してくれるように感じる。

 私は一日かけて、家じゅうを隈なく掃除した。ほうきを使って床の埃を掃き集めながら、人生の終りに不意に現れた年若い叔父が訪ねて来るのを、楽しみに待っている。

 
  終

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