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令和阿房列車論~その32『時刻表昭和史【完全版】』(2)特急「燕」「富士」「櫻」

前回のおさらい

毎週各章ごとに書評をしていく記事ですが、読書の習慣がほとんどないのが痛いです。


第2章 特急「燕」「富士」「櫻」〜昭和9年

初めて日本の列車につけられた愛称

現代は新幹線や特急をはじめ快速までも愛称のつく列車が多くなっていますが、日本の列車、とりわけ旧国鉄(当時は鉄道省)の優等列車に初めて愛称がつけられたのは昭和4年9月の「富士」と「櫻」になります。

さかのぼること明治45年6月、国鉄に初めて「特別急行」いわゆる特急列車が登場しました。
当時の特別急行列車は一、二等(現在のグリーン席以上の設備)のみで組成されており、身分社会の名残が残る当時、主に三等を利用する庶民を相手にしない列車だったのです。
その後大正12年7月に三等車のみで組成された特別急行列車が誕生して、複数の特別急行列車が存在するようになりました。それでもそれぞれの列車は設備の違いによって判別出来たのでしょう。

その後、第一次大戦後の世界的不況や関東大震災などの災難もあって、国鉄としても旅客獲得のためのサービスや宣伝として昭和4年9月のダイヤ改正に合わせて特別急行列車の愛称名を一般公募によって、1位の「富士」と3位の「櫻」、そして2位の「燕」は翌年10月の超特急として誕生したのでした。

宮脇俊三の時刻表初体験

宮脇俊三がまだ6歳の時すでに時刻表の記憶があるというのには恐れ入りますが、宮脇自身も『すこし早熟にすぎる』と書いているほどです。

それからおおよそ2年後の昭和9年12月、丹那トンネル開通した時に宮脇俊三は母親に新しい時刻表を買ってくれとせがんだというから、筋金入りの時刻表ファンになっていたのです。

けれども宮脇俊三は時刻表の愛読だけでは足りなかったのか、昭和9年の年末年始に母親と兄の3人で熱海に連れていってもらって熱海近くで時刻表と対峙しながら通過する汽車を兄と見に行ったのです!
さらに、年明けの1日に熱海から沼津まで母と兄とともに汽車で丹那トンネルを通り、沼津での超特急「燕」の機関車つけ替えを見たのです。

憧れの丹那トンネルを通過した時の宮脇俊三の感想は、入ってみると早く通り抜けてしまいたい気持ちがしたそうです。

私の7歳〜昭和49年

7歳当時の私(a-ki阿房列車)は初めて家族旅行で当時住んでいた北海道を飛び出して内地(本州)の仙台に行った記憶があります。

行きの記憶はしっかり残っていて、札幌始発の上り特急「北斗1号」で函館まで行き、青函連絡船を介して青森から上り急行「くりこま1号(だったはずだが号数は定かではない)」で仙台まで行ったと思います。

昭和49年当時の北海道は一部の電化区間を除いてディーゼルカーが幅を利かせていたので、電車急行の「くりこま号(455系急行形電車)」とか仙台から松島方面で乗った電車(確か72形電車だったと思います)が北海道では見られない車両だったこともあって、とても新鮮だった記憶が残っています。

時代や環境は違えど、私も宮脇先生もこの年代で鉄道に対する造詣はいっそう深まっていくのでした。

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