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MENA(中東・北アフリカ)専門家によるイラン解説 VI

 中国の詩人・杜甫の漢詩『春望』の冒頭には『 #國破山河在 #国破れて山河在り )』という一節があります。この詩句からも分かるように、戦争で国家が消滅しても山や川などの自然は残存します。広島と長崎に原爆が投下されましたが、それでもこれらの県は今なお存在しています。そのため、地質学をテーマにしているこのnoteでは、戦争が起こっても消滅することが無い地質学の解説を行うことが特徴です。

 地質学や地球史、生物史では、通常、国際政治や戦争に関する解説は行いませんが、2024年4月23日にイランのライシ大統領が、『 #イスラエル #イラン を攻撃したら #シオニスト 政権が消滅する』と述べたので、今回はこの記事の背景について解説します。

シオニズムとは何か?

 日本では #シオニズム について興味を持つ方が少ないため、まずはシオニズムについて簡単に触れたいと思います。シオニズムとイスラエルの関係は深く、歴史的にも重要です。シオニズムは19世紀末に始まった #ユダヤ人 の民族主義運動であり、彼ら自身の主権国家の設立を目指しています。この運動は、ユダヤ人が長年直面してきた迫害や反ユダヤ主義に対する解決策として、自らの国を持つことで安全を確保しようという考えに基づいています。

 ここで、読者の皆さまには、キリスト教徒、イスラム教徒、仏教徒は何れも『キリスト人』や『イスラム人』、『仏教人』とは呼ばれないのに、なぜユダヤ教徒だけが『ユダヤ人』と呼ばれるのか疑問に思っていただきたいと考えます。日本人や中国人、イギリス人のように、国名とその国の住民に対して『何々人』と呼ぶことはありますが、ユダヤという国は存在しません。

 シオニズムの発想は、ヨーロッパで高まった民族主義の影響を受けましたが、特にテオドール・ヘルツルによって体系化されました。ヘルツルは1897年に最初のシオニスト会議を開催し、ユダヤ人国家の構想を公式に提示しました。この会議は、ユダヤ人のための国家を求める国際的な運動の出発点となりました。

イスラエル建国

 1948年には、シオニスト運動の目標が達成されました。第二次世界大戦後と #ホロコースト の影響で、国際社会はユダヤ人に対する同情を深め、彼らのための独自の国家の必要性が広く認識されました。この結果、国連は1947年にパレスチナ地域の分割計画を承認し、1948年5月14日、イスラエル国が正式に独立を宣言しました。

シオニスト運動からイスラエル国家へ

 イスラエル建国後も、シオニズムの主要な目的は続きました。シオニズムは世界中のユダヤ人をイスラエルに移住させること、イスラエルの経済と文化を発展させること、そしてイスラエルをユダヤ人の永久の安全な避難所として確立することに焦点を当てています。

現代のシオニズムとその論争

 今日、シオニズムという言葉はさまざまな意味で使用され、時には政治的な文脈で議論の的になります。イスラエル国内でも、シオニズムの意味と目的については多様な見解があります。また、パレスチナ人との対立において、シオニスト政策がどのように影響しているかについても、国際的な議論が続いています。

 現在、イスラエルを国家として承認していない国は #アルジェリア 、バングラデシュ、 #ブルネイ 、コモロ、ジブチ、 #インドネシア #イラン 、イラク、クウェート、レバノン、リビア、 #マレーシア 、マリ、ニジェール、北朝鮮、オマーン、パキスタン、 #カタール #サウジアラビア 、ソマリア、北スーダン、シリア、 #チュニジア #アラブ首長国連邦 、イエメンの29か国があります。

 イスラエルとしての国家は1948年以前には存在していませんでした。イスラエル国家は1948年5月14日に独立を宣言し、これにより正式に成立しました。その前は、該当地域はパレスチナ地域と呼ばれ、さまざまな国や帝国の支配を受けていました。

歴史的背景

古代:この地域は古代には #カナンの地 として知られ、後に古代イスラエル王国やユダ王国が存在しました。これらの王国は紀元前の時代に栄え、後にバビロニアやペルシャ、ローマ帝国の支配を受けました。

ローマ帝国の支配下:ローマ帝国の支配下では、この地域は『ユダヤ属州』として組み込まれ、後に『 #パレスチナ 』と改名されました。ローマの支配を受けた後、この地域は #ビザンチン帝国 の一部となりました。

イスラム時代:7世紀にイスラム勢力によって征服された後、この地域は数百年にわたりイスラム帝国の支配下にありました。

オスマン帝国:1517年から1917年まで、パレスチナ地域は#オスマン帝国の一部でした。

イギリス委任統治領パレスチナ:第一次世界大戦後、この地域はイギリスの委任統治領となりました。この期間中、ユダヤ人の移住が増加し、現地のアラブ人コミュニティとの間で緊張が高まりました。

イスラエルの成立

 1947年の国連の分割計画により、パレスチナ地域がユダヤ人国家とアラブ人国家に分割される案が提案されました。この計画はユダヤ教徒によって受け入れられましたが、アラブ側はこれを拒否し、地域の緊張はさらに高まりました。1948年にイスラエルが独立宣言をし、その直後から周辺アラブ諸国との間で第一次中東戦争が勃発しました。

 したがって、現在のイスラエル国家は1948年に設立されたものであり、それ以前は『イスラエル』としての独立した国家は存在していませんでした。

イスラエルがイスラム諸国から嫌われる理由

 イスラエル建国の背後にある議論を明らかにするために、現在のニューヨーク州が400年前まで #ネイティブ・アメリカン   #アメリカ先住民族 (インディアン)の #レナペ族 の土地であったと仮定してみましょう。その上で、ニューヨーク州を占拠して独立運動することの無茶さを考えると、イスラエルの建国も同様に疑問視されます。このような論議は通用せず、レナペ族が実力を行使すればアメリカ政府によってテロリストとして排除されるでしょう。

 イスラエルの主張はレナペ族の主張よりも唐突なので、イスラエル建国については、世界の多くの国々が正当な国とは認めておらず、エジプトを中心としてイスラム諸国が、パレスチナ独立を支援するためにイスラエルと戦争することになりました。

 イスラエルとエジプト間の戦争は、20世紀中盤の中東地域の緊張と紛争の中核をなす出来事であり、数回の主要な戦争においてこれらの国々が直接対立しました。以下に、その主要な戦争について概説します。

1948年の第一次中東戦争(独立戦争)

 1948年5月14日にイスラエルが独立を宣言すると、エジプトを含む周辺アラブ諸国はイスラエルに対して軍事介入を開始しました。エジプトは他のアラブ国と共にイスラエルの新たな国家を認めず、イスラエルの存在を無効にしようと試みました。この戦争は1949年の停戦協定により一応の終結を見ましたが、エジプトとイスラエルの間の国境線、特にガザ地帯においては緊張が続きました。

1956年のスエズ危機

 エジプトのナセル大統領によるスエズ運河の国有化宣言後、イスラエルは英仏とともにエジプトに侵攻しました。この目的はスエズ運河の国際的な航行権を確保し、シナイ半島でのエジプトの軍事的脅威を減少させることにありました。イスラエル軍はシナイ半島を迅速に占領しましたが、国際的な圧力により撤退しました。

1967年の六日戦争

 緊張の高まりの中、イスラエルはエジプト、シリア、ヨルダンに先制攻撃を行い、わずか六日間で戦争を決定的に有利に進めました。イスラエルはガザ地帯とシナイ半島、西岸地区、ゴラン高原を占領しました。この戦争はエジプトにとって大きな敗北であり、イスラエルとの力の差を露呈しました。

1973年のヨム・キプール戦争

 エジプトとシリアは、ユダヤの最も聖なる日である #ヨム・キプール にイスラエルに対して奇襲攻撃を開始しました。エジプト軍はスエズ運河を越えてシナイ半島への初期的な成功を収めましたが、イスラエル軍は反撃して戦争の流れを変え、最終的には停戦に至りました。この戦争後の結果が、後の平和交渉のきっかけとなりました。

#武智倫太郎

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