イライラした時に、必要な想像力と不必要な想像力

先日、朝の通勤電車で、誰も座っていない席に座ろうとした時のこと。
サッっと物凄い勢いで、その席の上にカバンを置かれた。
あまりにも勢いがありすぎて状況を読み取るのに時間がかかったが、どうやら空席の横に座っている女性がカバンを置いたようだった。
しかも意図的に。こちらを一瞬見てすぐ目を逸らしながら。
数秒経って、ようやくこれはただの意地悪だ!と思った。
どおりで私の前にその席に座ろうとした人も座っていないわけだ。
正確に言うと”座れなかった”のだが。

その女性は、60代くらいの白髪混じりの小柄な女性だった。
大きなリュックを膝の上に置き、A4の何かの資料を一生懸命を読んでいる。
周りの乗客がくしゃみや咳をすると、あからさまに嫌な顔をし、手に持っている資料で顔を隠す。

そんなに人が嫌なら座らなければいいのにと思いながら、結局、他の席が空いたのでそちらに座った。
気にしなければいいことなのに段々と腹が立ってしまい、通勤中は終始イライラした。
会社に着いてからも、あの瞬間自分はどうするべきだったのか、こんなこと言ってやれば・・・と完全にその出来事に執着し、胸がざわざわする午前中を過ごした。
二度と会いたくないから引っ越そうかと思うくらい、気付けば私の中で怒りが膨らんでいた。

何故こんなにも固執してしまっているのか。
何故こんなにも怒りに囚われているのか。
よくよく考えてみれば、その怒りの中にはいくつか感情があることに気付いた。
「満員電車の中で辱められた」
「意地悪をされて、ショックだった」
など。
単純に”ムカつく”ではないのだ。
それは、羞恥心や後悔や残念な気持ちも含んでいた。
いろんな負の感情が混ざり合って、私を怒りでいっぱいにしていたのだ。

その日のランチの時間、私はいつもの会社のランチメンバーに今朝の話をした。みんな優しく聞いてくれ、優しい言葉をかけてくれた。
そして、「その人、明日死ぬんじゃない?」「不幸な人なんだよ」と励ましてくれた。

話すことで少しスッキリしたが、正直2日間は負の感情を引きずった。
人生で初めての出来事でショックが大きく、受け入れるのに時間がかかったのだ。(今思えば、怒りよりショックの方が大きかったんだと思う)

そんな出来事があった1週間後。
私はいつも通り、電車に乗って帰宅していた。
いつも電車に乗るときは、なんとなく降りそうな人の前に立つのだが、(当たる確率は4割くらいだが)、その日も例によって的が外れ、自分が立っている隣の席が空きそうだった。
私の横には誰も立っていなかったが、1人分先に50代くらいの女性が立っており、私と同じくその席を狙っていることが雰囲気でわかった。
じりじり距離を詰めていたが、結局2席空いたので、2人とも席に着くことができた。

その時、私は前に座っている30代くらいの女性の足に当たってしまった。
蹴るほどの勢いではないが、足が軽く当たってしまったのだ。
「すみません。」と謝ると、その女性は嫌そうな顔をした。
私は、その顔を見て最初は舌打ちをしたい気持ちだったし、また嫌な目にあったと思った。

しかし、すぐに記憶が蘇りハッとした。
以前、全く同じ態度をとって後悔したことがあることを思い出したのだ。

それも確か通勤の満員電車だった。
男性のサラリーマンが私の足を蹴った。
もちろん悪気なく蹴ってしまっただけだと思うし、きちんと私に謝ってきた。
しかし、その時の私は機嫌が悪く、嫌な顔をした。
その後、少し時間を置いてから、その人に申し訳なくなり、嫌な顔をしてしまった自分に後悔したことがあった。
そんな出来事をすっかり忘れて、またしてもただただ苛立ってしまっていた。

私はその嫌な顔をしてきた女性の横に座りながら思った。
彼女も反射的に嫌な顔をしてしまったけど、後悔してるかもしれない。
そうじゃなかったとしても相手の気持ちを想像してみれば、嫌な顔をする気持ちが分かるじゃないか。
日々の生活で、心が廃れ、意地悪な想像しかできなくなっている自分に気がついた。

そしてその時、偶然読んでいた村上春樹の「かえるくん、東京を救う」の言葉が目に入った。
それはこんな言葉だった。

「真の恐怖とは人間が自らの想像力に対して抱く恐怖のことです」

そうか、怒りもきっと自らの想像力に対して抱く怒りなんだ。
大した出来事ではないことも、私は起こった出来事に対して自分自身の想像力で怒りを膨らまし、日々苛立ち続けているのだ。

その時、朝の通勤電車で意地悪をしてきた60代の女性を思い出した。
そして、自分に問いかけた。
「電車の中で他人に意地悪な感情を抱いたことは今まで一度もなかったと、神に誓えるのか?」
答えは、ノーだ。
邪魔だとか、この場所から動かないぞとか、正直全然思っている。
神には誓えない。

他人の悪いところは目につくのに、自分のことは偽善的なところでしか悪いところが見えていなかった。(綺麗ごとで言い訳がましく、正当化しているだけの反省だ。)
日々の苛立ちは他人に対する怒りより、自分自身のもっと根本的かつ日常的で些細なことが問題だった。
そう思った瞬間、恋が一気に冷めるように、自分の怒りの感情も一気に冷めた。

私は相手の気持ちを考える想像力も足りなければ、逆に想像力で怒りや悲しみを膨らまし、自分のことを苦しめていた。
想像するという行為は、誰にでも物心ついた時から自然に体に染み付いているものだと思うが、それは時として必要な想像力と不必要な想像力があり、それをうまく使い分けることが必要なのだ。
それに気付いてからは、幾分感情も穏やかになった。
”人のふり見て我がふり直せ”と言うが、本当にそうである。
結婚したって、子供ができたって、偉くなったって、どんな状況にいても生きている限り、人生は想像力の修行なのだ。



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