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争いのない縄文時代と戦後復興に見る戦争回避へのヒント

旧石器時代末期から縄文時代草創期の遺跡とみられる日本の大平山元遺跡からは、16500年前の石鏃が出ており、同時に無文土器も発見され、共に現在のところ、世界最古と考えられています。

また、日本では旧石器時代から人が集まって居住しており、この「縄文以前の原住民」の時代から女性上位の文化だったと言われています。
勾玉、これは「ヒトの生命=胎児」を形にしたものでしょう。その胎児を宿す女性への畏敬と崇拝。土偶は、多産や無事な出産への切実な祈り、そして誕生と豊穣の象徴である女性は信仰の対象となり、かつ女性家長が存在し中心的の地位を保持していたことが明らかになっています。

集団を維持するためには、より生命力の強い子孫を残す必要があり、衛生面や胎児の発育面でも出産はリスクが極めて高かったと考えられ、女性一人が出産をする回数も多く、出産や授乳などの育児のもつ意味が極めて大きいものでした。
育児は「集団の子」としてコミュニティ全体で協力して行われ、女性が中心となり集団を指揮する構造も自然なことだったかもしれません。

そもそも天照大御神は女神であり、卑弥呼もまた巫女、女帝として扱われており、生命を誕生させる女性を神聖化しているのがわかります。
 
日本の縄文時代は非常に長く、約14000年以上続いた狩猟採集の定住時代は世界でも類を見ません。
『縄文時代』という時代区分は日本史に固有のものであり、世界史の枠組みにおいては、旧石器時代末期~新石器時代~鉄器時代という区分にあたります。
縄文時代は草創期(約16500~11500年前)、早期(約11500~7000年前)、前期(約7000~5470年前)、中期(約5470~4420年前)、後期(約4420~3220年前)、晩期(約3220~2350年前)の6つにわけられており縄文文化では戦争も戦いも起こらず、貧困もなく、定住して、シェア文化を築いていたと考えられています。
 
それを証明するのが、『真脇遺跡(縄文時代前期約6000年前から晩期2300年前まで、人々が住み続けて繁栄した集落長期定住型遺跡。)』での定住4000年や『垣ノ島遺跡(縄文時代早期前半約9000年前から後期後半約3500年前に至るまでの縄文集落の変遷と生活痕跡。)』での定住6000年です。
もし争いがあったのなら、この長きに渡り協力して同じ種族が同じ場所で定住できるはずがないからです。
 
また、三内丸山遺跡は、縄文時代前期中頃から中期末の大規模集落跡であり、遺跡は約40ヘクタールの広大な範囲に広がっています。
集落は住居、墓、捨て場、大型掘立柱建物、掘立柱建物、貯蔵穴、墓・土坑墓、粘土採掘穴、盛り土、道路などが、計画的に配置されており、遺構の柱は、柱穴の間隔、幅、深さがそれぞれ4.2メートル、2メートル、2メートルで全て統一され、当時既に測量の技術が存在していたことがわかります。

これほど大規模な建造物を建てるには多くの労働力を必要としたはずであり、集落居住者の団結力と彼らを的確に指導できる指導者がいたことも推測できます。
また、柱本体にも腐食を防ぐため周囲を焦がすという技術が施されており、長い間腐食を防ぐことのできた一因となっており、柱は栗の木でできていて、柱は2度ほど内側に傾けて立てられていました。現代の内転(うちころび)と同じ技法あり、縄文人の高い建築技術をうかがわせます。
 
狩猟採集に縄文犬を使い、ペットのように飼って、死後は埋葬しており、狩猟採集に行く際の携帯できる栄養食として、縄文クッキー、縄文ハンバーグ、縄文パンも見つかっています。
土偶は信仰があったことを示し、土器は保存や煮炊きにも使われ、毛皮ではなく、暑い季節にも使える布の衣類を使っていました。
 
遺跡の発見場所と収集物の産出地から見て、遠く外海まで航海していたことが確認されており、縄文時代には他言語の文化圏と交流し、争いではなく話合いで解決がなされ、助け合わなければ生き延びられない時代を自然や他集団と共生しながら生きていたことが、遺跡や人骨からわかっています。

この文化の中で地域ごとに複数の言語が、縄文語として話され、土器の縄目や文様は物語を表現しているようなものがあり、生命力や豊穣への祈りだけではなく、決まった文様や記号があり、象形文字が存在していた可能性を示しました。
 
しかし、弥生時代になると所有する感覚が持ち込まれ、水田稲作が各地で行われ、バランスの均衡が保たれなくなってしまったため、弥生時代にはじめての争いが起きたと言われています。

この争いの始まりこそ、男尊女卑や不平等、父系制社会を生んだ原因でもあり、その後の戦闘の歴史の開幕でもあります。

戦場には子を産む大切な女性は参加させず、命を大切にされ、むしろ集落内で守られていたことでしょう。そして敵であれば、強奪する財産は稲、収集物だけではなく、女性もその対象であったと考えられます。
そして争いが頻発化していけば、互いに財産を奪い合い、争いに参加しない女性は戦力として役には立たず、外交や社会からは離れた存在となり、権力を奪い合う時代から現在まで女性の地位が低下していったと考察できます。
 
アメリカの国際政治学者である「サミュエル・ハンチントン」は、著書「文明の衝突」で、世界を次の八つの文明圏に分け、「西欧文明」「ラテンアメリカ文明」「アフリカ文明」「中華文明」「ヒンドゥー文明」「東方正教会文明」「イスラム文明」と「日本文明」の世界八大文明としています。
また、現在では、「世界四大文明」という言葉や表現は、20世紀以降の日本や中国でのみ用いられ、国際的には「文明のゆりかご」と言う言葉で、文明の数について明言していません。既に世界四大文明という言葉は、国際的には通用しない言葉になっているのです。

しかし、日本の教科書では、我が国固有の「日本文明」や「縄文文化」と言う誇り高い文化について、深く教わりません。
 
この日本が誇る争いのない世界最古にして唯一の文明、『縄文時代』は戦後に教科書から大部分の内容が外され、研究が進まなかったことは、日本人の謙虚さや争いを避ける国民性によるものだけではなく、未だ日本に蔓延る敗戦国の遠慮、愛国心の欠落の後遺症なのではないでしょうか。
 
日本は戦後、自国民の意思であるかは別として、戦争を放棄した国です。その後は当然のことながら他国と協力し、支援しながらも、自国の成長に注力できたという事実があります。
人命を捨てることも、戦争で文化を傷つけ合うこともせず、完全に瓦礫と焼野原になった国を一から修復し、残る民で人口を増やし、漁業、農業、工業、建築、医学、科学、復興を促進させ続け、ついにはGDP2位にまでなったのです。
天然資源の乏しい日本が、世界が驚くほどに短期で目覚ましい成長を遂げたのには、内政に注力したことが非常に大きな鍵であることは間違いありません。
 
世界中の民は、「他国の内政に口を出し、他国の戦争で儲けようとしている場合なのか?」「そこで得た名声は自国の誇りとなるのか?」「その間に自国が衰退していないか?」「自国が世界の中心であるというのは驕りではなかったのか?」と問いかけ、自国の統治者の政治を注視してほしいと思います。

国民が知識を身につけ、自分のルーツを知り、国史を知り、政府の動向を監視することは、個人のアイデンティティ形成や誇りにつながるばかりか、善悪の判断する能力を養い、ひいては世界を平和に導くと信じています。

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