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薄い荷(1922字)

(昨日、ワークショップで書いたものです。せっかくなので公開します。)


川さらえ、ってこんな感じなのかな、と思った。


たぶん、違う。まるで、彼女が汚いもののような言い方になるから。


「私は気にしないけど」

「僕は気にしてほしいけど。……今の状況を」


狭い狭い室内は、床が見えないくらい、まっしろな塵に覆われていた。


気付けば、僕の体は、膝の上まで埋もれ、ほとんど身動きがとれない。


そんな中で僕は、スコップを下ろしては、山となったそれをすくい、彼女にかけていた。


当の彼女には、ずいぶん不評だけど。


「こんなことして、何になるの」

「体、元に戻るかもしれない」

「戻らないよ」

「戻る」

「戻らない。わかるよ。私の体なんだから」


彼女の体は、まるで胸像のようだった。


下半身は崩れて、腕も、ほんのさっきまであったけど、今は。


「これ、何なの」


息が上がってきたけど、それでも彼女に話しかける。返事がなくなったら、不安だから。


「君は、それを私だと思ってるんでしょ。だから、減った分を私にかけてるんでしょ」

「塵のことじゃなくて、この状況。さっきも訊いたけど」


腰が痛くなってきた。外に出しているわけじゃないから、室内の全体的な質量は変わらないとはいえ。


ずっと自分の周りから、彼女の方へ移しているのに。未だに、爪先どころか、膝さえ見えてこないのは、どういうことだろう。


「どうして、言うまでもないことを、言わせようとするの」


彼女は言った。


「きみはわかってるかもしれないけど、僕には何のことだか」

「互いにわかってることだから、そう言ってるのに」

「あ」

「あ」


彼女の左耳が、崩れ落ちた。ぱさりと塵の山の上に落ちて、すでに跡形もない。


僕は、彼女の左耳が、どんな形だったのか、思い出そうとする。無駄なことだった。


「もうやめよう」


彼女は言った。


「放っておいても、おかなくても同じ。私は、いなくなるんだよ」

「……」

「わかってるんでしょ。どうして、わからないふりをするの」

「ねえ」

「何」

「僕の声、まだ聞こえてる?」

「……聞こえる。右耳は残ってるから。でも」


彼女が言っている最中に、右耳も落ちた。音もなく。僕は、自分の体が切り裂かれたような思いがした。


「ああ、大丈夫。まだ聞こえるみたい。崩れたのは、外側だから……」


耳を失ったのは、彼女の方なのに、どうしてなのか、彼女の声を、遠くに感じた。自分の耳に、おそるおそる触れてみる。ちゃんとそこにあった。


僕はもう、部屋中を埋めつくす塵を、すくうことも、彼女にかけることもしていなかった。


彼女の体は、減っていく。部屋の塵は増えていく。減りもせず、増えもせず、変わっていないのは、僕だけ。


「どうしてだろう」


僕は、彼女に話しかけているのか、いないのか、どっちなんだろう。


「どうして、こんなに、バカみたいに、塵が積もってるんだろう。人間一人分の質量じゃないよ」

「体だけじゃないもの」

「どういうこと」

「私が私になったのは、体のおかげだけじゃないもの」

「……どういうこと」


僕はもう、彼女の方を見ていなかった。


彼女は、息が荒くして汗をかくだけの生きものに、ため息をついた。


「最期のお願い、聞いてくれる?」

「……さいごの『ご』は、『期待』の『期』じゃないだろうね」

「もちろん、その通り」

「いやだ」

「窓を開けてほしいの」


彼女の声が、小さくなっている気がする。また、どこかが欠けたんだろうか。


「開けたら、きみも塵も、飛んでいっちゃうよ」

「だから開けてほしいの」

「いやだ」

「ねえ、もう、いつ喋れなくなるのか、わからないの」


それは、言われなくてもわかっている。小さくなった声は、あと少し、舌か喉か、どこかが失われれば、もう。いや、それらが塵になってしまったら、そのときには、彼女は、


「お願い。私には、腕がないから」

「スコップ、スコップ……かけないと、早く」

「お願い。これ以上、苦しまないで」

「僕は苦しくない。苦しいのは」

「私だって、苦しくない。……今ね、すごく安らかな気持ち」

「……」

「思い出して。わかってる。君は、わかってる」

「僕も、わかってる?」

「そう」

「僕も、」


僕も、わかってる。


そのとき、勢いよく窓が開いた。


強くて、でもあたたかい風が吹いて、部屋中の塵をすべてさらっていった。


床の上には、文字通り、塵ひとつ残らなかった。


もちろん、彼女も。


ようやく軽くなった膝は、僕の意思に関係なく、僕を床に座り込ませた。柄を掴んだままのスコップが、金属の冷たくて固い音と、床を削るような音を、同時に鳴らす。


ひどく綺麗な床の上に、汗がいくつもしたたり落ちた。


僕も、わかってる。


わかってた。


きみと同じくらい、わかってた。


深く息を吸っても、むせることはなかった。本当に、何もかも失せてしまったんだ。


目を閉じても、彼女の腕も、耳も、顔さえも、何一つ思い出せなかった。(了)

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