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信州に”世界”が押し寄せた時 〜回想'98 長野冬季五輪〜 (続編)

五輪はいつも・・・


北京五輪が終わった。
五輪は、いつも始まる前に何かと問題が起き、政治化する。
しかし、最後は、賛成派も反対派も多くの人が、アスリートが魅せてくれる人間離れした超絶技と、逆にあまりに人間らしいドラマに釘付けになる。


私も、他にもっと大事なニュースがあるなと思いながらも、中継でも、その日のまとめニュースでも、同じシーンを何回も見て、泣き笑いしたりした。

しかし、いつも思う。
感動や興奮することと、問題が解決したかどうかは別問題なのに、一緒くたにして、五輪を肯定するのか or 否定するのか、という、また単純な政治的対立になってしまう。本当に残念だ。

感動は感動、問題は問題。特に、私たちのお金に関わることは、分けて考え、政治的な対立を取り除いて、解明したほうが良い。

長野の招致活動をめぐる疑惑


振り返れば、98年の長野冬季大会も、そうだった。日本中を興奮させ、さまざまなレガシーを残したと言われることがある大会も、最初は、疑惑から始まった。

(↓ 前回の投稿も、ぜひ。)


長野大会は91年のイギリス・バーミンガムでのIOC総会で正式に開催が決定したが、その前の招致活動をめぐって、IOC委員への賄賂や過剰接待の疑惑が取り沙汰された。招致活動の帳簿が”焼却・破棄されてしまった”ことが、疑惑をことさら大きくしたのだ。都合の悪い文書がなくなったりするのは、政治で問題が起きた時によく起こる現象と同じだからだ。

その後、県の調査委員会が調査などをするも全容はわかっていないという。これについては、直接取材していないので、私はわかっていないが、当時も「スポーツ貴族」と呼ばれていたIOC委員への過剰接待スキャンダルについては、長野の一地方局としても、なんとかして調べてみたいと奮闘したのを思い出した。

IOC委員に、直接電話してみた


当時、招致活動の中で、多くのIOC委員が事前に日本を訪れ、過剰な接待を受けたと指摘されていた。

帳簿がなくなってしまった今、検証は難しいかもしれないが、せめてIOC委員の誰がどういう日程で訪問してどういう接待を受けたか、少しでも調べることができるのではないか・・・地元のメディアの一員として何もできずにいるのは嫌だったので、調べてみたいと思ったのだ。

そうは言っても、何から手をつけたらよいのやら・・・
私たちは、とりあえず、何十人もいるIOC委員の連絡先が書かれたリストを入手することができたが。

その時、当時の上司が言った。

「お前らの中で英語できるやつ何人かいるだろ。電話かけてみればいいじゃん。」

「えっ?そんなの無理だろ」・・・と皆一瞬思ったが、その一言をきっかけに、私たち若手の記者らが、時差のため毎晩遅くまでIOC委員ひとりひとりに国際電話をかけて、しらみつぶしに話を聞いていったのだった。

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それにしてもIOC委員といえば、「スポーツ貴族」と言われるほどの大人物ばかり。王族や上流階級の人物もいて、そう簡単に電話をして話をしてくれる人たちとは到底思えない。

でも、とにかく電話をしないと始まらない。まずは、かけてみた。
すると・・・なんと!結構簡単に本人とつながったことに驚いた。

一番印象的だったのは、名前は忘れたが、電話をするとまず女性が出て、こちらが名乗ると、「ちょっと待ってくださいね」と言って、電話の奥の本人らしき人を呼んでいる声が聞こえる。

「ちょっとー、電話。なんか、日本の長野のなんとかって言ってるけど、ちょっと出てちょうだい」的なことを言っているようだ・・・えっ?、まさかこれ自宅じゃないよな?でも電話の奥から子供の声がする?雰囲気が事務所じゃないような!?

しばらくすると、男の声で、つまり本人が電話口に出てくれたのだ。

「もしもし、突然失礼します。私は日本の◯◯の、◯◯と申します。・・・前に五輪の視察で長野に来られましたよね。その時はどんな日程で来られましたか?どういう接待を受けましたか?費用の負担は?その時は・・・でしたか?」と、愚直に、もちろん丁寧にだが、そのままズバッと聞いてみたのだった。

すると、これまた驚いたことに、色々話してくれたのだ!突然電話してきた、知りもしない外国の記者(と名乗る男)に対して。

もちろん、収賄のような問題行為について話すことはないし、肝心なところは適当に答えていると思うのだが、一応きちんと答えてはくれた。ある意味メディアの扱いに慣れていて、リスク管理ができた対応だったのかもしれない。逆に言えば、日本の偉い人たちの中には、こういう対応ができる人が少ない気がするし、聞く側も、普通に堂々と聞く文化があまりなかったように思う。

結局連絡がつかない委員もいたが、回答を得られた人たちだけ、その内容をまとめて放送で伝えた。

一部「黒いスポーツ貴族」とも揶揄され、腐敗で処罰される委員もいたが、実際に問題行為があったとしたら、その闇は相当深いだろうし、当然簡単な取材ごときでわかるようなものではない。しかし、自分達にも関係する問題が起きた時、国内外に関わらず、権力に臆することなく、聞くべき事を、まずは正攻法で普通に聞くべきだ、という考え方は、この時に身につけた気がする。

海外からの視察者の要求 対応に追われる県職員


もうひとつ、印象的だったこと。

それは、大会が近づくにつれ、海外からスキー、スケート、などあらゆる競技の国際競技連盟の関係者などが長野を訪れた際の地元の対応だ。

長野大会の組織委員会(NAOC=ナオック)は、長野県の職員の他、長野市、政府などからの出向者を中心に構成されていた。

ヨーロッパ人を中心とした国際競技連盟の代表らは、来るたびに多くの要求をしていた印象だった。海外旅行ではなく仕事ということで来たからには何か言わねばならぬかのように。

例えば、視察を終えての記者会見で、「競技会場の観客席が足りなすぎる。最低、あと○○席は増やすべきだ」などと発言すると、メディアはそれを書き立て、組織委員会の人たちは、すぐにその対応に追われていた。

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観客席が足りないというのは、そんなに大事なことなのだろうか。

私は正直、本筋の話ではないし、大切な県民のお金に関わる話だし、そんな報道するほどのことでもないと思ったし、何より、そう言われたら何とかしないとと、県職員らが、文字通り慌てふためいているように見えたのが、とても嫌だったのを覚えている。

また、私の上司の上司で、スポーツ報道に関わってこられた方が、ある日私に対して「おい、スクープをやるよ。今度来た○○の視察団が、選手のロッカーが狭すぎるって言ってたよ。まだどこも書いてない特ダネだぞ」と、私が喜んで感謝するのを期待するかのような表情で持ってきてくれた。

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しかし、私に良かれと思って言ってくれたその方に失礼だと知りながらも、私は内心とてもシラけていた。これ、そんなに大事なことだろうか。これが特ダネなら、特ダネって何なんだろう、と。この感覚は、実は今でもずっと変わらない。

嵐のようにやってきて、嵐のように過ぎ去った


若い時に、世界のオリンピックがやってくる地方の現場にいることができたのは、幸せだった。良いことも、悪いことも、学んだことがいくつもある。

地元の人も、ある人は夢をみたり、子供は未来や世界を意識したり、またある人は商機を狙ったり、はたまた問題に追われたり、反対する人もいたり。しかし、皆競技には魅了され・・・そして・・・

嵐がどーっとやってきて、どーっと去って行った。

我々メディアも、東京から大軍団が押し寄せた。どう考えても、あなた必要ないでしょ、という偉い人たちまで。そして、賑わうメディアセンターの中では、世界各国のメディアの人たちと話す機会もあった。ピンバッジを交換しあうのが楽しかった。

そして、長野の街なかにあった表彰式会場。あの時の街の熱気。外国人男性が集まるバーに地元の若い女性が集まり、そこにまた若い男性が集まっているのも見た。街じゅうが、どこか興奮していた。

いずれにせよ、雪国ならではの、”寒いのになぜか暖かい”、という感覚があの冬はさらに強かった。身体がまだ、それを覚えている。

そして、彼らが全て去った。

その後のシーンとした感覚はいまでも覚えている。
しかし、余韻に浸っているひまもなく、さりげなくいつもの日常が始まっていたのも覚えている。

あれは、一体何だったのだろう。幻のようだ。

その後、世界各地の五輪を見るたびに、そして五輪にまつわる問題が起きるたびに、長野で見たあらゆる立場の人たちの顔が思い浮かんだ。

そして、もう単純な切り口で五輪のニュースを見ることができなくなっている自分に気がつくのだった。たったこれだけの体験でも、知れば知るほど、単純に語れなくなる。

”軽々しく、わかったようなことを言わない”という姿勢も、あの長野の冬に学んだことだ。


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最後までお読みいただき、ありがとうございました!

AJ 😀





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