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織田信孝の辞世 戦国百人一首㊳

納得できない死を前にして怒りを爆発させた辞世を残したのは、織田信孝(1558-1583)である。織田信長の3男で、神戸具盛(かんべとももり)を養父としたので、神戸信孝とも名乗った。
自害を強制される者の全てがあっさりと世を捨てて逝くとは限らない。彼のように、煮えくりかえるような思いを辞世に、そして態度に表わしながら死んでいった者もあるということだ。

38.織田信孝

             昔より主を内海の野間ならばやがて報いん羽柴筑前  
 
昔よりこの地、内海の野間は主君を討つ故事の残る場所だが、主人を殺した者が後に誅殺されたように、秀吉よ、やがてお前にも報いが訪れる事になるのだ

微妙に言葉遣いが違うバージョンもある。

   昔より 主を内海の 野間なれば 報いを待てや 羽柴筑前

意味は同じだが、こちらのほうがもっと感情的か。

どちらのバージョンにも出てくる「内海」という地名には「討つ身」の意味も掛けられている。

さて、この歌を理解するには、信孝が自害するに至る歴史的背景を知る必要がある。

まず、1582年に本能寺の変で信孝の父・信長と嫡男の信忠が明智光秀に討たれた。
信孝が、まさに四国攻めへ向けて出航しようとしていた時だった。
急ぎ備中高松城より軍を戻してきた秀吉が指揮し、信孝が総大将となって信長の弔い合戦・山崎の戦いで父の仇を討った。

その後の織田家の跡継ぎ問題を話し合う清洲会議が開催され、2つのことが決まった。

1.天下人を定めずに4人の宿老による合議制とする
2.信長の孫(嫡男信忠の息子)・三法師が織田氏の後継者となる

さらに秀吉は、まるで自分が信長の後継者であるかのように喪主となって信長の葬儀を実施。
これらに不満を持った信孝は、居城となっていた岐阜城から三法師を秀吉側に渡さなかった。
そこで1583年賤ヶ岳の戦いが起きた。
三法師を擁立し信長の2男・信雄を引き入れた羽柴秀吉派と信孝を推す柴田勝家との間の戦いだ。

しかし、柴田勝家は戦いに敗れて自害。
頼みの勝家を失った信孝は、信雄に岐阜城を攻められ、和議を持ちかけられて開城した。
しかし、尾張に向かった信孝は、野間(愛知県美浜町)の内海大御堂寺の安養院で信雄の命令によって自害させられたのである。
自害は秀吉の指示によるものだったとも言われる。

この内海という場所は、かつて平家からの恩賞を目当てで長田忠致(おさだただむね)が源義朝をだまし討ちにした場所だった。
逆臣・忠致は、のちに義朝の息子・源頼朝によって処刑された。
その故事を踏まえ、信孝は
「長田忠致が誅殺されたように、やがてお前にも報いが訪れるぞ、秀吉!」
と辞世に込めたのである。

なお、信孝の辞世はもう一つある。

たらちねの 名をばくださじ梓弓 いなばの山の露と消ゆとも

稲葉山の露と消えるとしても、武人の家に生まれた者として名を貶めるまい

無念を滲ませた歌ではあるが、こちらの辞世のほうがぐっと感情が抑えられたものになった。
実は、こちらのほうが「本当の」辞世ではないかとも言われる。

だが、今回は感情的なほうをあえて信孝の辞世として取り上げた。
なぜなら、実際の彼の切腹は、十文字に掻き切った腹から自分の腸を引きずり出し、床の間にかかっていた梅の掛け軸に投げつけた、という壮絶なものだったからだ。
その行為に相応しい辞世は、「やがて報いん羽柴筑前」のほうだろう。

安養院には、その時の血の痕がついた掛け軸が、自害に使用された短刀と共に残されている。織田信孝、享年26。