我々は、死肉を食べて生きている
はじめに
今回のかきあつめのテーマは「死」だ。この記事では、僕が普段から考えている思想に基づいた内容を書いてある。伝えたいことを先にいうと『動物だろうと植物だろうと、ヒトは命を食べていることに変わりないんだから、せめて美味しく食べようぜ』である。
前職で食肉の卸売をしていた筆者だから強く感じる想いかもしれないが、食について「命の上にある」という意識がある。
共感してくれる読者がいたらとても嬉しい。
どんなものも、美味しく食べるようにありたい
僕の趣味の1つに料理がある。といっても、家庭料理程度しか技術はない。だが仕事後で疲れていても、晩酌で気分転換したいが為に小皿を作る程度には料理が好きである。
そんな料理が趣味の僕であるが、肉を食べるときはコダワリが強くなる。ステーキを食べる際には、まず肉に合う酒選びから始まり、肉は塊肉から専用包丁でカッティングし、ステーキ用のクソ重いフライパンで焼き、最高の焼き加減で堪能するようにしている。
なぜ僕が肉を食べるに際してこんなにもコダワリを強く持っているか。それは『生命を食べていることへの尊重の意識』によるものだと思っている。美味しく食べないと、そのお牛さんに対して、申し訳ない気がするのだ。
そして、想いの大小はあれど、僕はすべての食べ物に対して肉同様の尊重の意識を持っていることに気づいた。
我々は死肉を食べて生きている
僕は仕事の経験から尚さら強く意識していることだが、我々が食べている肉は、もとは生きていた動物の一部である。
僕は前職で輸入牛の仕入れ担当をしていたとき、アメリカ国カンザス州の食肉処理場の見学をしたことがある。
アメリカは全ての規模がデカく、僕がいった食肉処理場は1日5,000頭の牛を処理していた。(1つの処理場で1日5,000頭である。処理する牛たちの待機スペースもメチャクチャ広い。)
危険なので屠殺そのものは見学できなかったが、一頭がベルトコンベアーに吊るされ部位ごとに解体されていく行程は全て見た。僕らがスーパーの店頭で買う輸入の牛肉は、処理場で部位ごとに真空パックされたものが船で輸送され、スーパーや食肉センターでカットされトレーに小分けされる。
サーロインなどの背中側のジューシーな部位はステーキとして売られ、スネなどの筋肉質な部位はミンチなどに加工される。焼肉屋で食べる丸くスライスされた牛たんは、元は1本の長細い牛の舌であり、ハラミは牛の横隔膜筋である。
牛や豚・鶏も同様だ。売られている肉を見ても意識をしないかもだが、こう書くともともと1頭の動物であることが分かってくるだろう。
また、数でいえば牛<豚<<鶏なので、世界では毎日スゲェ量の屠殺が行われている。分かりやすく肉で説明したが、魚も植物も同様だ。日々大量の水揚げがあり、収穫がある。
そう、我々は命の上に生きているのである。
全ての動物が、生命の上に成り立っている
さっきから大それた題目で書いているが、当たり前のことを書いている。
そもそも「生命」について、辞書で調べてみた。
【生命】
①生きて活動する生物が生き続ける、根源の力。いのちの長さ。寿命。「強い-力」。「彼の政治-は尽きた」。
②物事を成り立たせ発展させる原動力。また、一番大切な中心・内容。「事業を-とする男」。
(岩波国語辞典 第7版より)
なるほど。①では「生命」とは「生物が生き続けるための力」のようである。
では、「生物」とはなにか。
【生物】
生きて活動し繁殖するもの。動物・植物の総称。↔無生物。
【無生物】
生物と区別して、生命が無く生活機能を持たないものの総称。
(同じく岩波国語辞典より)
まとめると、辞書的には「生命」とは「動植物が生き続けるための力」といえる。
そして僕が冒頭に「全ての動物が、生命の上に成り立っている」と書いたのは、「光合成ができる植物や、火口付近に生息する硫黄細菌などのように無機物をからエネルギーを生み出す生き物でない限り、生物は動植物を栄養源として摂取しなければ生きていけない」という自然の摂理のことを言いたかったのだ。
僕らが動物である限り生物を殺めることなしに生きることは叶わず、生物には動物と植物の両方が含まれるのである。例えば、普段食べている肉は「もとは全て生きていた動物」であるし、サラダであっても「もとは生きていた植物」なのだ。(植物でも果実など「動物からの捕食を想定した部位」は外れるが。)
あと一応書いておくが、この多様性の時代に菜食主義がどうとか、どうあるべきという話はしていない。生命という考え方を元にすると、植物も動物も変わりはないという意味である。
食べるからには、美味しく食べよう
ここで料理の思想に振り返ろう。僕が一番言いたいことは『食べるからには生命を食べていることを理解し、美味しく食べよう。』である。
肉や魚や野菜を食べること全てが、生命を食べていることに変わりないのである。そして、それが自然の摂理であるならば、僕らはなるべく美味しく食べる必要があるのではないだろうかと提案したい。
もちろん食べたくない人は食べなければいい。僕が言っているのは「食べるからには」である。
僕のエゴであることに変わりはない。だが、その生命を無駄にせず、正しく評価するためにも、美味しく頂こうではないか。と。
どうだろう。この記事で少しは美味しく調理してみようと思えたら幸いである。
記事:アカ ヨシロウ
編集:円(えん)
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