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怒って当然だから!

デンマークの心理療法家イルセ・サンの著書は、今まで気づかなかったことに気づかせてくれるものばかりです。
今は、HSP-Highly Sensitive Person-についての本を読んでいます。

感覚に過敏さを持つHSPについてはずいぶんと前から知っていて、自分自身がそうであることを疑って日本の医師が挙げていたチェックリストをやったり、対処法を勉強したりしたこともあるのですが、だんだんと負担になったり、勉強しても上手く行かないことに劣等感を強めてしまったりして、私には当てはまらないのだと放り投げてしまいました。

日本の精神医療全てに言えるわけではないのですが、こうした疾患とはいえない性質の問題をチェックリストなどで『診断』し、治療的にアプローチするというのが、日本の精神科医療の王道のようになっています。
私が誰か他人にアドバイスする時は、私もその罠にはまってしまうかもしれませんが、それはあくまで、医者が『治療対象の患者』として対象者を扱っているに過ぎず、同じ人間同士として痛みを分かち合うという関係にはならないところが問題なのです。

あなたは○○という『問題』を抱えている。
○○には、☆☆という、エビデンスの確かな治療法がある。
だから『権威のある私』の言う方法を試せば、楽になるはずだ。
楽にならないのは、あなたが私の言うことを理解する力が無いからだ。
治そうという気概が無いからだ。

極端に言えば、そういうニュアンスに取れなくもない。
ひねくれ者の私は、そういう雰囲気にすぐ反応してしまい、『どうせ私には合わない』と身を引いてしまうのです。
しかし身を引いたとして、結局すがれるものを失くして途方に暮れるのは私自身。
『良いもの』を提供しようとした医者は、自己責任で治療を放棄した患者への責任など取らなくても良いのです。

そんな愚痴を語っても仕方ないのですが、イルセ女史は、全く別の視点からHSPを分析して、あくまで事例として対処法を示しています。

彼女の基本的な姿勢は、
・自分自身も当事者であり、悩んできたこと。悩んでいる途上にいること。
・人によって違いがあり、同じケースは一つとして無く、似たような事例から本人が対処法を見つけ出していくこと。
・『改善』というのは、必ずしも心に平穏をもたらすものでないこと。
というものです。

人間だからこそ、悲しみや苦しみや怒りを感じるのは当然である。
しかしHSPの人は、一般の人が見過ごすようなことも敏感に感じることがあり、必要な怒りや悲しみと、必要の無い怒りや悲しみの区別がつかなくなることがある。
イルセ女史はそう語ります。

うつ病になって精神科に通っていた時、
神経症や発達障害や愛着障害を疑って、あれこれ情報収集していた時、
全てに当てはまりそうで、『回復』が期待できるワークに取り組んだけれど、どれもみなしっくりと来なくて、結局続けることに疲れてしまい、途中で諦めてきました。
諦めると、それまで進歩していたこともすべて手放して、自己嫌悪に陥ってしまいます。
そんな自分を『怠け者』と呪い、一生楽に生きることはできないのだとまで、思い詰めてしまいます。

しかしイルセ女史は、HSPを人間の性質として生き生きと語り、
「人間だからそういうことがあるよね。でもあまりにも苦しいなら見方を変えてみるとどうかしら?」
という消極的な提案をします。

あまりにも苦しい人には、
「何でも良いからこの状況を変える方法を教えてくれ!」
と言いたくなるかもしれません。
しかしそれこそが、長年の習い性で、自分には解決する能力が無いと諦めてしまった結果でもあるのであり、他人にはどうすることもできないのです。

治療的に自分を変えようとするとき、怒りや不安が湧き起こることが『悪いこと』とされがちです。
その怒りや不安を他人に話したり、何かにぶつけたりすれば、また自己嫌悪に陥ってしまいます。
怒りや不安を他人にぶつけないことと、怒りや不安を持つ自分が悪いのだと思うことは、全く別ですが、その行為を他人から指摘されると、怒りや不安を持ってしまう自分が悪いのだと思いがちです。
アンガーマネジメントというのが流行っていますが、その考え方も自分の中の怒りをコントロールしよう、あるいは気持ちを逸らそうとするものと捉える人もいて、自分自身に負担を課してしまうことになりかねません。

しかし、理不尽なことに怒りを感じるのは人間なら当然なのです。
虐待やマルトリートメントは、その理不尽さが尋常ではない。
その上、「親を批判するとは何事か!」と社会からお叱りを受けるような理不尽さをさらに背負ってしまうこともあります。
膨大な怒りの感情をどこに持っていっていいのかわからず、アカの他人を攻撃してしまうことにもなりかねないのです。

私の場合、思い起こせば、HSPの症状は幼い頃からありました。
雷、運動会のピストルの音、排気ガスの臭い、自分の身体の痛み、トンネルの中に響く車の音、さまざまなものに耐え難い恐怖を感じる性質でした。
しかし親からは、それらが『気弱な性格』から来ていると思われていたので、言葉で「我慢しなさい」「強くなりなさい」と叱咤激励されていました。
イルセ女史によれば、HSC(HSPの子ども)には、ゆったりとした環境で愛情深く育てられることが必要なのだそうです。
それはそうです。
あらゆることに敏感で、ただ生活しているだけでも恐怖に満ちている環境なのだから、庇護者がそれらの刺激から子どもを守り、自己肯定感を下げないように本人を擁護するような声掛けをしてあげなければ、その子の人生は不安と恐怖しか無いものになってしまいますから。
しかし私の親は、私の性質を真っ向から『悪いもの』とし、叱咤激励することによって矯正しようとしてきたのです。
そして叱られれば叱られるほど、ますます恐怖心が募り、できるものもできなくなって怯えて過ごすようになりました。
それを『陰気で可愛げのない子』と見限ったのです。
これは心から怒るべき案件です。
しかし私の怒りは、『反抗期』『親不孝』として、またさらに私の責任にされたのです。

神経症やHSPのワークでは、その膨大な怒りの感情を鎮めていこうとするものが多く、怒って当然のことをされた私に対して、誰も『怒っていい』とは言ってくれない。
『我慢しなさい』『気を逸らしなさい』
と言うものばかりでした。

しかしイルセ女史は、怒りを持つことを否定せず、むしろ怒りを持つことが人間として自然なのだと言っています。
ただこの怒りは、一生解消することはないということも覚悟しなくてはならないのです。
何故なら被疑者を罰する方法が無いからです。

解消できない怒りを、自分や他人にぶつけてしまうことで悲劇は生まれます。
怒りを持つことは正しいけれど、自分や他人にぶつけたとしてもそれは解消できないどころか、ますます自分を追い詰めることなしならない。
怒りを否定せず、怒りも一つの自然な感情として持ち続けながら、他の感情と共存させていく。
それこそが、自分を信じ、自分を人間らしく生かしていく方法なのではないか。
イルセ女史の本から、そんなことに気づかせてもらいました。

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