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ファッションの自由がもたらすメリット

これだけ男女平等という世の中でも、実際には男女差別は存在します。

社会的な仕組みや経済活動においても、日本はいまだ男女差別が根強い国です。

あらゆる差別は、目に見える表層と目に見えない意識とが奥底でつながっています。



目に見えるものの代表が、服飾・ファッションです。

私たちは、社会的なシステムの中で活動するとき、必ず男性と女性に分けられ、それぞれそれに見合った服装をすることが求められます。

男女別の服飾は、必ずしもそれ自体が差別を構成しているとは限りませんが、結果として差別の意識を下支えしている面があります。



男性は男らしい服装をして当然。

女性は女らしい服装をして当然。

それを求めるのは自然だから、違和感を感じる方がおかしい。

このような“常識”の中で、私たちは生まれ、育てられ、学び、社会で活動します。



最近は、LGBTQなどのマイノリティの権利のことが意識されるようになってきました。

それ自体はとても大切なことですし、逆にまだまだこれからのテーマだとも思います。

一方で、狭い意味でのマノリティの人権が語られれば語られるほど、マジョリティの中における多様性は乏しくなります。



ときに性別にとらわれずにもっと自己表現したいと思っても、あえて自分をマイノリティとは自覚せず、周囲からそう思われても面倒だと考えると、ついつい自分らしさを躊躇してしまいます。

そんなふうに周囲にあわせて大人しく生きていくのが当たり前だという刷り込みが強まるほど、無意識のうちの自分は男性(女性)らしく型にはまった生き方をしなければならないという強制力が働きます。

これがさらに周囲を巻き込んで相互監視していくという、負のスパイラル。



たかがファッション、されどファッション。

つべこべいわずに、男性がもっとも女性らしいファッション、女性がもっとも男性らしいファッションにチャレンジしてみたら、良くも悪くも、その魔力を身をもって味わうことができるでしょう。

今の世の中は、ファッションの自由の負の側面への警戒心に満ちあふれています。



どんな薬も、使い方を間違うと逆効果になりますし、どんな良薬でも必ず何らかの副作用があります。

私たちたちは、それをおそれるあまり、必要以上に臆病になってはいないでしょうか?



通常、男女差別は、男性が女性を差別しているという構図でとらえられます。

女性の権利は男性によって制約されているけど、男性は女性よりも優越的な位置にいると語られます。

でも、近代以降、ファッションにおいてより幅広く自由な表現を手にしたのは女性で、男性は制約の文化の中をいきています。



男性は、自由なファッションになんて興味を持ってはいけない。

この“男らしさ”のメカニズムが、結果としてある種の“女性蔑視”を下支えしている事実に、私たちはわりと盲目的です。

実際には自由がないのに、自由を手にしないこと自体、“特権”であるという壮大な錯誤のメカニズム。



ファッションの自由は、その人自身が好き勝手に自己表現できるメリットもさることながら、ときにこの仕組みに“エラー”をもたらします。

このエラーは、部分的には攪乱的要素としかみなされませんが、長い長いときの流れによって、変化をもたらし私たちを次なる文化へといざないます。

そろそろ、慎ましくも節度ある文化的な“エラー”を起こすことで、男女差別解消に別の視角からアプローチする流儀が、すこしは認識されてもよい時代なのかもしれません。

学生時代に初めて時事についてコラムを書き、現在のジェンダー、男らしさ・女らしさ、ファッションなどのテーマについて、キャリア、法律、社会、文化、歴史などの視点から、週一ペースで気軽に執筆しています。キャリコンやライターとしても活動中。よろしければサポートをお願いします。