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シリマーの秘密 6.「平日のヒーロー」パウリーヌ・テルヴォ作 戸田昭子訳

今日は、父は夜に仕事へ行く。それでも、朝食は全員でとる。昨日の夜起きたことは、誰も全く口にしない。それでいい。父はコーヒーを飲み、新聞にチーズのかけらをおっことし、母はいつものようにそれを指で集める。それから父は新聞を閉じ、口を開いた。

「例のアンニーナにうちに来てもらう、っていうのはどうだ?」
父はこんな風に、他人のように言う。私がうちに客を招くように、と提案する。しかもアンニーナを!
父がやらないことがあるだろうか?こんな風に手を振って。父は山を征服する。一番ややこしい社会的状況すら。私にもその素質が伝わってるかもしれない!
「週末でいいかな?」と父は続け、母をちらっと見る。
母はうなずく。次に、二人して私を見る。

私が何を知るというのだ!いったいどうやればいいのか、まったく思いつかない。食堂の列で?コート掛けの前で?それとも昨日のようにブランコで?もしもアンニーナが私を避けたら?それくらい怪しい状況ではないか!

父が解決しないことが問題なのではない。私のためらう目を一瞥し、父はアンニーナの母の電話番号を携帯から熱心に探している。考えよ!父はこうして見知らぬ女性に電話をし、要件を伝える。確定。週末に、アンニーナが私の所へ来る。(そうしなくてはならないというのなら!)

どんなふうに私とアンニーナが最高の仲間になるか、私の目には見える。

父は指を動かしている。
「落ちる前になめるな、だよ」
このことわざはわからない。でも指の意味していることはわかる。
Hold your horses=君の馬を押さえてろ。つまり、私は自分の中の飛び跳ねる子馬をつかまえておかなくてはらない、ということ。それはまるで、蝶。それはまるで、暴れる小鹿。今さっききれいに並んでいたのが、枝から飛びたつ鳥たち。

学校では実際、集中できない。アンニーナは私を見ていないようだ。アクスは鉛筆をずっと長いこと削っていて、もうすぐ鉛筆全部がなくなりそう。アクスはようやく席へ戻ったが、先生が何度も説明を繰り返したのに、何をすべきか思い出せないでいる。
「好きなことを絵に描きます。書くのでもいいです」私は彼に小声で言う。アクスは描きたい書きたいのか、わからないのだ。
「好きなことを描けばいいのです、なんでも」私は助け舟を出す。
「君は何が好きなの?」アクスがたずねてくる。
「私はおばあちゃんと、泳ぐことが好き」と私は答える。
「ああそっか、ぼくも」アクスはそう言い切った。

アクスは、みかんの大きさのボール、ピンポン玉大のボールを描き、線を描いて足と手とした。ボールの真ん中には笑顔。私は深くため息をつく。
私は真似が大嫌いだ。

「どうして全部同じものを真似しなくてはならないの?」私はささやく。「それぞれ自分が好きなものがあるでしょ」
「僕は、ない」アクスは言い切った。

アクスは、紙いっぱいに横切る曲線を描き終えた。次に、手を新しい線でくっつかないように描く。最後に雄大なタイトル「ぼくとおばあちゃんが泳いでいるところ」
アクスはまぬけだ。
でも私は審判できない。それが何の役に立つというのだ?
アクスを忘れようと決める。
アクスもアンニーナもみんな、人生の果てまで忘れてやる。
自分の内側に向かう。
私の世界の中からは、誰も何も盗めない。盗むことはできない。
私は私自身の国の支配者である。
シリの国、シリ・マー。シリはそこに住む。他の人は誰も入ることができない。誰ひとりとして入れない。もしかしたら一人だけ、でもその人は望まないかもしれないが。

私は机から上質のクレヨンを取り出す。
長い髪の祖母を描く。
水仙と、遠くにぼんやり見える島々を描く。

岩は小さな石鹸みたい。波は岸辺で泡に変わる。白いクレヨンで泡を丸く描く。くるくる、くるくる。青と緑は一緒になって子供を産む。丸い赤ちゃんたちを。

アンニーナも鉛筆を削りに行く。私に向かってゆっくり向きを変える。私の席でスピードを緩めた。彼女が私の絵に感嘆して少し立ち止まったのかと思ったが、その手から、紙きれが落ちた。

「隠して!」アンニーナがささやく。そしてなにもなかったように歩き続ける。私は紙をポケット深くに押し込み、読むのにふさわしいタイミングを待った。

10時45分、教室を出て母が私を迎えに来る時間。今だ。教室のドアを後ろ手に閉める。心臓がどきどきして飛び出しそうに怖い。紙を開く。

そこにはこう書いてある『明日、あなたの所に12時30分にバスで行きます。 アンニーナより』

たぶん私は、世界一幸せな人間だ。
階段を大股で数段飛び越して降りる。
母の車は大きな猫のように駐車場でぶるぶる言っている。
前席に飛び乗った。
気分がよい。いい気分だ。
暖かい水が、溶けて、広がっていくよう。

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