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上半身裸の写真から考える、私たちの現在地

2022年8月10日に新しいウェブメディア「 OTEMOTO [オ・テモト] 」を創刊して1週間が経ちました。

おかげさまで多くの反響をいただいております。その中でも、特に読まれている記事がこちらです。

小学校教師である星野俊樹さんが自身の子ども時代を振り返り、「あのとき、大人にどうしてほしかったのか」を率直に語ってくれました。男性の生きづらさの根源について深く考えさせられるインタビューでした。プライベートに踏み込んだ内容だったため、第三者の主観が入らないよう、一人称の構成にしました。

男子は騎馬戦と組体操、女子はチアダンス、と性別によって種目が決まっており、選択肢はありませんでした。しかも男子は全員、上半身裸にさせられたのです。

騎馬戦も組体操も、運動会の「華」とされていた種目でした。練習では、指導と称して先生たちから太鼓のバチで殴られたり、ビンタをされたり。裸だったためケガが絶えませんでした。

そのときに僕を含めた男子たちから上がったのは、「組体操が嫌だ」「裸になりたくない」という訴えではなく、「女子はずるい」という不満でした。「自分たちは叩かれながら練習しているのに、女子は楽をしている。不公平だ」と。

「上半身裸の騎馬戦という「地獄」に苦しんだ僕は、教師になった」(OTEMOTO)より一部抜粋


記事の内容とは別に、私が悩みながらもこだわった点があります。

サムネイルの写真です。

"上半身裸の騎馬戦という「地獄」"とまでタイトルで言っているのに、なぜ直接的に連想させるようなイメージ写真を使っているのかーー。


メディアは、タイトルに使用する言葉やアイキャッチの画像について、差別表現や人権侵害を再生産しないよう非常に気を配っています。たとえ事実をわかりやすく伝えるものだとしても、メディアが使用することによって二次被害を生む可能性を考え、使用の是非は慎重に判断されます。

私はBuzzFeed Japanのニュース部門の編集長だったときに、自らの認識不足によって差別表現を再生産する画像の公開にGOを出してしまったことがありました。反省してもしきれない間違いでした。二度と同じ過ちを繰り返さないよう注意してきたつもりです。

この記事で「地獄」とまで言っているイメージの画像を出すべきなのか。ストックフォトの使用方法を含め、さまざまな選択肢を検討しました。

それでも、上半身裸の騎馬戦のイメージ画像を選びました。

私の判断が正しいのかどうかはわかりません。ただ、あえてそうしたのには理由があります。

個人的な話になりますが、私は息子の高校受験のため昨年度、十数校の学校説明会に参加しました。ほとんどの高校が、学校説明会のビデオや学校案内の資料で体育祭について紹介していました。

そして少なからぬ高校で、上半身裸の男子が棒倒しの種目に取り組んでいる迫力のある画像が紹介されていました。まさに「我が校の誇り」という扱いでした。

私は「上半身裸の棒倒しは、体育祭の花形競技なんだろうな」という程度の感覚で見ていました。しかし息子は「絶対にやりたくない」と拒絶し、棒倒しの種目があるとわかった高校は選択肢から外していました。

息子が入学した高校には棒倒しの種目はありませんでしたが、騎馬戦があることが体育祭の前になってわかりました。騎馬戦で騎手役になる生徒だけは上半身裸になるというルールだったのです。

息子によると、上半身裸になるのを嫌がる男子が多く、騎手役はなかなか決まらなかったそうです。

今回、星野さんのお話を聞いて、上半身裸になることを嫌だと感じる男子はこれまでもいたのに、30年前にもそこに存在していたのに、声があがっていなかったのだということを知りました。

もし私が、息子や星野さんの話を聞いていなかったら、このサムネイルのような写真をよくある体育祭のワンシーンとしか見ていなかっただろうと思います。

学生時代に体育祭で騎馬戦を楽しんだ人にとっては、キラキラした青春の一コマを懐かしく感じる写真でしょう。一方、苦しんだ日々を思い出す人もいるかもしれません。いまだに上半身裸でやっているのかとびっくりする人もいるでしょうし、秋の体育祭に向けて心配でたまらない中学生や高校生もいるかもしれません。

この写真を見てどう感じるかは、それぞれの人の経験や価値観、時代の空気によるものが大きいのではないかと思います。

星野さんが「自分は嫌だった」と声をあげたことをきっかけに、「自分も嫌だ」という声があがれば、上半身裸にすることの必要性を検討したり、ルールを廃止したりする学校が出てくるかもしれません。あるいは、騎馬戦という種目そのものがいずれなくなるかもしれません。

10年後、20年後にこの記事をたまたま読んだ人が、「男子だからといって上半身裸にさせられていた時代があったなんて」と驚くことになったとしたら、この写真は2022年の現在地を記録したことになるのでしょう。


私たち OTEMOTO [オ・テモト]は、情報が「資産」として残り続けることを大切にしたいと考えています。

スマートフォンでのぞけるインターネット空間にはさまざまな情報が溢れていて、あっという間に流れていきます。

その中でも、価値ある情報は歴史に残り、未来をつくります。

生きづらさを感じる誰かの希望になったり、世界をよりよく変えるきっかけになったり。暴力や差別を二度と繰り返さないための学びにもなります。

結婚したら女性が仕事を辞めていた40年前。タクシーで喫煙できるのが当たり前だった20年前。レジ袋が無料だった2年前。すでに当時のことを思い出せないくらい、社会の「常識」は変わっていきます。

その変化の足跡を知ることができるのは、情報が残り続けているからです。以前なら図書館に、今はインターネットにも。

「10年後、『あの時代にはこういう価値観があったんだ』『当時、あの人はこんな言葉を残していたのか』と、いわば歴史を振り返ることになる。今流れている情報も、社会の資産になることもあるわけです」
OTEMOTO がめざしているのは、「人もモノも大切にされる社会」「自分らしさを自由に表現できる社会」です。

“土屋鞄”を擁するハリズリーが、新メディアOTEMOTOに込めた願い「人もモノも大切にされる社会に」  (Business Insider Japan)より一部抜粋


男子が上半身裸になった騎馬戦の写真を見て「これは地獄だ」と感じる人がいます。同じ写真が、多くの学校案内で「我が校の誇り」として紹介されています。

これが、2022年に私たちが暮らしている社会なのです。

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