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Dの世界の日本文学を真剣に考えてみた/『力と交換様式/柄谷行人』読書感想文

画/透視 Clairvoyance /村上隆 より  

10年ぶりに長編小説を書いています。ここ半年間は小説の題材を求めて、高野山で結縁灌頂を受けたり、ChatGPTにメタフィクションを書かせたり、AV監督さんとその仲間たちと対話したりと、とても自由な時間を過ごすことができています。中でも、学生時代に学んだ本、好きだった本をもう一度手に取ることができたことは、幸いでした。

その流れから、今回柄谷行人の最新作『力と交換様式』を読みました。なかなか読み応えのある読書体験となりました。この半年間ぼんやりしていた思考を言語化するのにとても助けになったので、夏の終わりに読書感想文してみようと思います。

その解説本『柄谷行人「力と交換様式」を読む/文藝春秋』の中で、柄谷行人はこう言っています。

『文学は死んでも、終わらない。(中略)文学は必ず何らかのかたちで回帰してくる、と思います。「全世界に妖怪が徘徊している、文学という妖怪が」というべき事態が来る、と。』

2007年刊行の柄谷行人の著作『日本近代文学の終わり』も読みましたが、それは日本中の小説家の合同葬儀を思わせるような文芸評論でした。作中で柄谷行人は『近代文学を作った小説という形式は、歴史的なものであって、すでにその役割を果たし尽くしたと思っているのです。』『今日の状況において、文学(小説)がかつてもったような役割を果たすことはありえないと思います。(中略)その点に関して私は文学に何も期待していません』と繰り返し言っているからです。私は十代の頃から同著者の『日本近代文学の起源』を胸に小説を書き続けていたので、なおさら自分のお葬式に参列している気分になったのでした。

それが2022年今回は、『文学は死んでも、終わらない』宣言です。とても、とても嬉しかった。たとえ妖怪としてでも、回帰できるなら…。いやむしろ「妖怪」ってのが文学らしく陰湿でイイ。ジャック・デリダの「幽霊」の文学版と思えば格好が付かないこともない。

せっかくだから、おそらく『交換様式Dの世界』に回帰してくる文学という妖怪を真剣に考えてみよう、と思います。

補足ながら、柄谷行人は、Dの回帰は「神の力に拠るものなので人間が意識でどうにかできるものではない。」「むしろ人間の意志に反して生まれてくる」要は「来るのを待つしかない」と言っているのですが、私は待てません。本当は大学院などで時間をかけて研究したいところですが、そうも言っていられないので失敗と多少の痛手は覚悟の上、迎えに行きたいと思います。あくまで読書感想文として、寛容な心で読んでいただけたらとても嬉しいです。


●『力と交換様式』概要


ではさっそく、『力と交換様式』の概要を紹介します。「交換様式」は、柄谷行人が編み出した独自の概念です。社会のシステムを交換から見ることで、四つの交換様式を見いだしました。その四つは、A=贈与と返礼の互酬、B=支配と保護による略取と再分配、C=貨幣と商品による商品交換。Dは、Aを高次元で回復したもので、自由と平等を担保した未来社会の原理として掲げられています。

そして、①の交換様式の「力」の部分にフォーカスしたのが②の交換と力の諸携帯です。
Aの互酬には「贈与されたら返さなければならない」という観念的、霊的な力が働きます。これを作中では呪力(ハウ)と呼んでいます。日本人ならば「お天道様に顔向けできないことをしたら、バチが当たる」という感覚に近いでしょうか。近代社会では無かったことになっている霊の力に言及しています。「霊的」というと科学的でないという反論が浮かびます。しかし、柄谷行人は、「磁力も17世紀半ばまでは実在の力とは見なされなかった」と指摘し、「科学的な態度とは、たんに霊を斥けるのではなく、霊として見られるほかないような『力』の存在を承認した上で、その謎を解明すること」だと説いています。

そしてB。国家と国民が持つ服従と保護の交換には政治的権力という力が働いています、柄谷行人はホップズを引用しながら、国家と国民が持つ保護と自発的な服従の「力」を説きます。柄谷行人は「国家に従えば保護されるという交換がないと、国家の力自体が終わってしまう。ホップズがすごいのはその力を海の怪獣(リヴァイアサン)と呼んだことです。普通の力じゃない。物理的に力がないように見えても、ものすごい力を持つ怪獣にたとえました。国家には力がありますが、それが武力によると思ってはいけない。武力があっても、国家は続かない。国家が存続するためには、武力ではない何か別の力が必要です。国家の〈力〉が、それに従えば(国民は)保護されるという〈交換〉によって成り立つということです」と言っています。

そしてC、資本制社会による商品交換に働くのが物神崇拝の力です。柄谷行人は作中でマルクスを引用しながら『商品は、交換されることで初めて商品としての価値を持ちます。資本制社会の中では、商品や貨幣そのものに価値があるのではなく交換から生じる観念的な力こそに価値が宿る』と言っています。この観念的、霊的な力に魅せられ回っていく世界観のことをマルクスは物神(フェティシュ)崇拝と呼びました。発表当時は皆冗談だと思って取り合わなかったそうです。

柄谷行人は四つの交換様式は同時に存在していて、どの交換様式が支配的かによって、社会のありようが決まってくる、と説きます。Aならば氏族社会、Bであれば国家、Cの場合は資本制社会が、その代表例です。Dが支配的な社会はいまだに存在していないといいます。

●交換様式Dはいかに実現されるのか?


では、柄谷行人がいうところの「交換様式D」は、いかにして実現されるのか?あるいは実現されてきたのか?

それは「普遍宗教」というカタチをとるのだと柄谷行人は言います。そして、ここでいうところの「普遍宗教」は、いわゆる「宗教」ではありません。一般的な「宗教」は多くの場合、ムラ社会的な共同体(交換様式A)に帰結するからです。むしろ唯物論的な取り組み(文学・哲学等のリベラルアーツを含む)によってこそ「普遍宗教(交換様式D)」は実現されます。そして「交換様式Dに関して重要な点は、第一に、それがA・B・Cと異なり、現実に存在しないということである。第二に、それは人間の願望や理想の産物ではないということ、むしろ人間の意志に反して生まれてくるということである。」
平等で自由な社会の在り方を想像・期待しても、望み通りには実現しない。しかし、それは「人間の意志に反して」生まれてくる」と説くのです。

●基礎的な社会構成要素における交換様式Dとは=コミュニティ(一部のシェアハウス、拡張家族等)では?

では、上記を踏まえて③の基礎的な社会構成にフォーカスします。A=前近代的なムラ社会。B=国民。C=資本制社会です。

Aのムラ社会とは、氏族(血縁)を中心とする親族集団です。多くが顔見知りの小さな共同体のイメージです。
Bの国家とは、主権者、領土、国民の三要素からなる集団です。Aと区別するため、Bの構成要素である国民の定義を振り返っておきましょう。ベネディクト・アンダーソンの『想像の共同体』によれば、Bの国家を構成する『国民とはイメージとして心の中に想像されたものである。というのは、いかに小さな国民であろうと、これを構成する人々は、その大多数の同胞を知ることも、会うことも、あるいはかれらについて聞くこともなく、それでいてなお、ひとりひとりの心の中には、共同の聖餐のイメージが生きているからである。〔中略〕そして最後に、国民はひとつの共同体として想像される。なぜなら、国民のなかにたとえ現実には不平等と搾取があるにせよ、国民は、常に、水平的な深い同志愛として心に思い描かれるからである。』とあります。
Cの資本制社会とは、原理的にはすべての人が自由で平等な資格を与えられ、経済は人間の間の商品交換関係として処理される社会です。

基礎的な社会構成の交換様式ABCを整理していて、私は感じたことがあります。

ここで回帰するはずのDは、「高次のA」つまりバージョンアップしたムラ社会であり、「自然発生的」つまり人間が頭で考えて作ったものではなく(自発的に心から欲したもので)、「普遍宗教的」つまり愛・自由・平等といった普遍的な理念や、信仰的な特定の興味や目的のある共同体であると考えられます。そのDは、ポツポツと令和の世、私たちが生活する現場にその姿を現しているように感じるのです。『神の力に拠る』『来るのを待つしかない』Dの世界がそこにはあります。
コミュニティ(一部のシェアハウス・拡張家族など)がその一例です。著者の柄谷行人も2000年から約2年半にわたって社会運動体「NAM(ニュー・アソシエーショニスト・ムーブメント)」を続け、その後も原発反対のデモなど様々な形で実践しており、次の世代へのA、つまりDの共同体の一例として挙げています。

●Dの世界の日本文学とは?

では、ここまでの交換様式を日本人のナラティブに当てはめてみましょう。ここでいうナラティブとは、主体に語られることで主体にアイデンティティを確立させるための物語、装置としてのフィクションとします。「心のありかた」「心のある場所」の物語と言い換えられます。
歌舞伎や仮名草子等を含むエンタメコンテンツはここでは除外します。

まず最初にA、呪力による交換様式が支配的だった社会において、日本人の心は神話・宗教的な世界観の中にあったと考えています。人々が八百万の神々と共にあった前近代的な社会をイメージしています。

次にB、国家と国民が持つ服従と保護の交換様式が支配的だった社会は、1945年までは「日本は天皇を中心とする神の国」であり、国民は天皇の臣民であるというナラティブが優勢で、第二次世界大戦敗戦後は国民主権の民主主義が優勢だと考えています。戦前と戦後では断絶があります。

そしてC、貨幣と商品の交換様式が支配的な社会において優勢なナラティブは近代文学、私小説であると考えています。

「え?私小説と資本制社会に何の関係があるの?」と思った方もいると思います。改めて貨幣と商品の交換が優勢な資本制社会と私小説(=日本近代文学)の関係を柄谷行人の『日本近代文学の起源』を元に説明します。

●私小説(=日本近代文学)と資本制社会の関係

資本制社会は原理的にはすべての人が自由で平等な資格を与えられ、経済は人間の間の商品交換関係として処理される社会です。その前提となるのは、『私』『個人』の概念です。

かつて、日本近代文学(小説)は、言文(書き言葉と喋り言葉)が一致し、世界には私(主体)とあなた(客体)がいて、それぞれに『内面』があり、それらの間には『風景』があって断絶させられ、『告白』がなければ自分の『内面』は相手に伝わらないという共通認識を、日本語を解するすべての人に持たせる働きがありました。

いわゆる「文学」でイメージされる、「私」と「現実」の間の葛藤を描き、心理描写や風景描写で物語が展開していくフィクション・私小説は、明治維新とともに西欧から輸入された「Litarature」の概念に基づきます。

それまで、日本人の『内面』は発見されていませんでした。これは、発見されたことで現前するようになった、とも言えるでしょう。
そしてそれは「我思うゆえに我あり」という近代的な世界観に日本人を立たせる、大前提でした。国民皆が皆同じ世界観に生きていないと、世界的な競争のスタートラインに立つことができない、近代化を急ぐ明治政府の事情が絡んでいることはいうまでもありません。

そう、私小説(=日本近代文学)は、『私』『個人』という概念を日本人に持たせ、日本人を資本制社会のスタートラインに立たせる、というミッションとは切り離せない存在だったのです。

それは中央集権と完全に均質化した世界を目指し、小説が発明された明治では新聞小説という当時の最新メディアや学校教育をインフラとし、拡大しました。昭和、平成、令和の現在に至るまで、義務教育の国語の授業で必ず小説が取り上げられるのはその名残です。

時代は流れ、90年代にはフランシス・フクヤマらによって『歴史の終焉』が宣言され、世界は完全に均質化したかに見えました。

実際、令和5年現在、日本語を解するほとんどすべての人が『私』を持っています。インターネットやSNSはもちろん、日本中に『俺を見ろ!』『私を見て!』というメッセージの嵐が吹き荒れています。芥川賞には毎年のように『私』小説がエントリーされます。そして小説を読む人よりも書く人のほうが多いのではないかと思えるほどに、投稿サイトには小説が溢れています。

冒頭の文を繰り返しますが、2007年刊行『日本近代文学の終わり』中で柄谷行人は『近代文学を作った小説という形式は、歴史的なものであって、すでにその役割を果たし尽くしたと思っているのです。』『今日の状況において、文学(小説)がかつてもったような役割を果たすことはありえないと思います。(中略)その点に関して私は文学に何も期待していません』と言っています。

私にはこの国の『個人』『私』が成熟しきったように思えてなりません。それはある意味、日本近代文学が目指していた世界の完成です。

かつて、活字の中で語られ、作家だけの特権だった『私』のナラティブを、今や現実の誰しもが語ることができます。その多くは資本主義社会の中で自己実現を目指す物語、もしくはそれからの敗走に寄り添う物語です。私は人気漫画『ONE PIECE』のイメージが近いです。

そして、読者だって馬鹿じゃない。現実生活でこんなにも成長や自己実現を煽られるのは、そもそもが資本主義という世界システムゆえ…とは気付かないまでも、正直、成長物語には食傷気味です。倒幕とともに封建制度が終わり、急速な近代化が始まった約150年前から日本人の『立身出世ナラティブ』は始まったのです。いいかげん、活字離れ、小説離れが進むのも無理はありません。

さらには、『脱近代』『脱アメリカ』『ポストモダン文学』が純文学の本流として語られた1980年代も今や昔。仮想敵だった資本主義も強かったはずのアメリカも、今や斜陽です。

『個人』や『私』が成熟しきった令和において、文学のかつての存在理由を、もう誰も覚えていません。
では、日本文学はその役割を終え、死んだのでしょうか?存在理由を忘れられてしまったのは、もう必要ないからなのでしょうか?

でもちょっと待って。それって、ちょっと無責任じゃありませんか?

だって、今世の中に生きづらさを抱える人たちが溢れている原因を作ったのは、文学です。小林秀雄が言うところの『自意識という球体』=『私』の中に私たちを閉じ込めたのも、資本主義社会の中の『立身出世ナラティブ』を私たちに信じ込ませる(ある意味洗脳する)土壌を作ったのも文学です。文学が死んでも、読者は現実を生きなくてはならないのに。

令和を生きる物書き、そして大人ならば、せめてその責任を考えるのが筋ってものではないでしょうか。たとえ、もう文学がかつてのキラキラした権威を取り戻すことは二度と無いにしても、屍を墓に埋めてその責任を無かったことにするのは、ちょっとずるい気がします。

柄谷行人は『日本近代文学の起原』のなかで『我々を閉じ込めているものを明らかにしなければならない』と言っています。それは私たちが言語で認識できるものの枠組みに捕らわれているということ、そして私たちが「現実」と呼ぶものはすでに内的な風景に他ならないのであり、結局は「自意識」であると知ることです。これらはかつての文学青年たちの間でさんざん議論されてきたことではありますが、日本近代文学が目指した世界が完成し、終わった今、改めて現実と時代にフィットするのではないかと私は感じています。

ではその一例を考えてみましょう。ChatGPTなどのLLM(大規模言語モデル)は、GPUサーバーに蓄積された、かつての誰かの言語による思考を必ずトレースしています。その分野に置いて私たちはもうLLMに太刀打ちできませんが、逆に言えばその思考の枠外に出ればオリジナルの仕事ができます。今現在私たちが言語で認識できるものの枠の存在を知ること、理解することは、これからシンギュラリティ後の世界を私たちが生きていく上のヒントになると感じています。

結びの時代が終わり、ほどきの時代が始まった令和において、文学には新たな仕事があるように感じるのです。150年の歴史ある私小説には、感謝と別れを告げる時なのかもしれません。
 

●Dの世界の日本文学=高次のA=バージョンアップした神話・宗教の世界!?

前置きが長くなりました。ではDの世界の日本文学について考えてみましょう。

Dの世界の日本文学の条件を整理すると、

①「高次のA」つまりバージョンアップした「神話・宗教」であること。
②「自然発生的」つまり人間が頭で考えて作ったものではない(自発的に心から欲したもの)。
③「普遍宗教的」つまり愛・自由・平等といった普遍的な理念を持つこと。

ここで一度胸に手を当てて考えてみます。新しい文学として、また自分自身のアイデンティティを確立させる手段として、これら①②③の条件を揃えてみましょう。…正直「ウッ」となりませんでしたか?
 
だって①「高次のA」つまりバージョンアップした「神話・宗教」であること。ってちょっとうさん臭い。おまけに③「普遍宗教的」つまり愛・自由・平等といった普遍的な理念を持つこと。という条件までついたら文学というより怪しい宗教の経典です。私を含め、拒否反応を起こす読者がいてもおかしくない。

自身のアイデンティティと宗教を結びつけることを警戒する日本人は決して少数派ではないと思います。この気持ちはどこから来るのでしょうか。意識できる大きな理由としてオウム真理教事件が挙げられますが、古来新興問わず、圧倒的多数の宗教団体がテロやカルトとは無関係です。それなのになぜ決して少なくない日本人は宗教的なものに対して「ウッ」となってしまうのでしょうか。(冠婚葬祭時の宗教的な儀式はこの場合Cの世界の資本制度下の貨幣と商品の交換的要素が大きいので除きます。)

まずはCの資本制社会(物神信仰)が優位性を保つために、科学信仰、エビデンス至上主義を唱えていることが考えられます。
そして次に、私は無意識的なものとしてBの天皇制ファシズムから国民主権の民主主義へのある日突然の変遷、つまり国家神道の敗戦の記憶があるように感じています。

柄谷行人は『日本近代文学の終わり』の中で「晩年のフロイトが超自我と呼んだものは、外から来るというより、内から来るものなのです。つまり、自分の中にある攻撃性が内側に向かった時に超自我になるとフロイトは言うのです」と説きながら、日本において憲法9条が改正できない理由について「憲法9条とは、戦後の日本人の攻撃性が内側に向けられて作られた〈超自我〉だとなのだと私は思います。それは〈無意識〉です。だから、理屈では説得されないのです。(中略)相手は〈超自我〉ですから〈意識〉のレベルでいくら説得しても無駄なのです。」と言っています。

同じように、アイデンティティとして宗教的なものを受け入れることに対しても、私は日本人の無意識や超自我が働いているように感じます。1945年、負けるはずのない神の国日本が負け、現人神である天皇が人間になり、神の力である主権が自分たち国民に分散された。それは当時を生きる国民にとってとても暴力的だったはずです。ですが、令和においても日本の首都東京には皇居があり、天皇制は残っていることを国民の誰しもが知っていて、デリケートな話題として詳細が表立つことはあまりない。日本人の内側で発酵した無意識が、アイデンティティとして宗教的なものを受け入れることに抵抗している様が思い浮かびました。

上記のことを踏まえ、①「高次のA」つまりバージョンアップした「神話・宗教」を考えると、神話・宗教的世界観が「脱宗教」することで新しい文学表現のひとつが生まれるのではないかと考えています。参考までに、今や市民権を得ているマインドフルネスも、元は禅の瞑想から始まりました。エキゾチックなものや他宗教がNGなキリスト教圏でも受け入れやすいように、仏教的な要素を取り除き、フィットネスの要素をエッセンスとして抽出したことが市民権を得た勝因と言われています。

また、ここ半年間は上記のことをぼんやり考えながら、「宗教×時事」「スピリチュアル×時事」「仏教×テクノロジー」「仏教×現代アート」など、テーマと文体を変えながらnote記事を書いて、「スキ」を押してくれる読者の数と層を観察していました。やはり、仏教的な主題を扱った上で、宗教的な要素を抑え、哲学的な側面やロジカルな側面を強調する記事のほうが、読者の反応が良かったです。

●宗教的な主題と「脱宗教」・夏目漱石の「則天去私」「一人称複眼視点」「中動態」


宗教的な主題を扱いながら「脱宗教」している一例として、夏目漱石の晩年の思想「則天去私」と、その時多様された「中動態」に注目します。漱石後期の作品に現れていると言われるこの思想は、ロンドンの留学を経て近代的な自己像を獲得し、日本に拡めるというミッションを経て、自らそれを超克しようとした晩年の漱石の自己とリンクしています。約一世紀の時を経て、「個人」「私」という近代的自己像を完成させ、超克せんとする現代人がやっと漱石に追いついた、漱石はやはり100年先を行っていたのだな、と私は感じました。また、晩年の漱石は鎌倉・円覚寺の釈宗演という僧侶の下に参禅しています。その時に得た学びが「則天去私」という思想に繋がりました。

そこにあるのは、自他を「透脱」しようとする姿勢です。
柄谷行人のペンネームの由来でもある『行人』の中で、漱石は「個人」「私」という枠組みを越え、自意識という球体からの離脱を目指すが、近代的自己を持つが故にそれができない明治人の苦悩を描いています。

「自分は女の容貌に満足する人を見ると羨ましい。女の肉に満足する人を見ても羨ましい。自分は何うあつても女の霊といふか魂といふか、所謂(いわゆる)スピリツトを攫まなければ満足が出来ない。それだから何うしても自分には恋愛事件が起こらない」
「メレジスって男は生涯独身で暮らしたんですかね」
「そんなことは知らない。又そんな事は何うでも構はないじゃないか。然し二郎、おれが霊も魂も所謂(いわゆる)スピリツトも攫まない女と結婚してゐる事だけは慥(たし)かだ」
(中略)
「兄さんに対して僕がこんな事を言ふと失礼かもしれませんがね。他(ひと)の心なんて、いくら学問をしたつて、研究をしたつて、解りつこないだろうと僕は思ふんです。兄さんは僕よりも偉い学者だから固より其処に気が付いて居らつしやるでせうけれども、いくら親しい親子だつて兄弟だつて心と心は只通じてゐるやうな気持ちがする丈で、実際向かふと此方とは身体が離れてゐる通り心も離れてゐるんだから仕様がないぢやありませんか」
「他(ひと)の心は研究は出来る。けれども其心に為って見る事は出来ない。其位の事なら己(おれ)だって心得てゐる積(つもり)だ」
兄は吐き出すように、又懶(ものう)さうに云った。自分はすぐその後についた。
「それを超越するのが宗教なんぢやありますまいか。僕なんぞは馬鹿だから仕方がないが、兄さんは何でも能く考へる性質だから……」
「考へるだけで誰が宗教心に近づける。宗教は考へるものぢゃない、信じるものだ」
兄は左も忌々しさうに斯(こ)う云い放つた。さうして置いて、「あゝ己(おれ)は何(ど)うしても信じられない。何(ど)うしても信じられない。ただ考へて、考へて、考へるだけだ。二郎、何うか己(おれ)を信じられるようにして呉れ」

行人/夏目漱石

漱石が目指した「自他の透脱」とは、小説の語り手が一人称複眼視点を持つことです。それは能役者が「我見(主観)」を離れて「離見」という視点を求められることに似ています。「離見の見」とは、「我見」という一人称主観のなかにヴィジョンとして想念された客観視点(離見)に反射されたところの、いわば主客超越視点です。「一人称単眼」によって描かれてきた漱石作品は、後期作品では「一人称複眼」をもって人間模様を展望する語りへと展開していきます。それは遠近法に基づく「風景」と、「我思う故に我あり」という世界観からの離脱であり、近代的自己、自意識という球体の粉砕への挑戦であるように感じています。それはおそらく、仏教の「空」を知ること、即ち「悟り」に繋がるのではないかと私は考えています。

ひとつ前のセクションで、『日本近代文学の起源』の中で、日本近代文学のミッションのひとつに世界には私(主体)とあなた(客体)がいて、それぞれに「内面」があり、それらの間には「風景」があって断絶させられているという共通認識を日本語を解する人たちに持たせることがあり、またそれは西欧の「Litarature」に基づいていると述べました。そのミッションの中心人物であった漱石は近世・江戸末期の生まれです。そのため漱石は「近代文学」もしくは「風景」以前の存在感覚を持っていたといわれています。西欧的なものの歴史性を明らかにするために初期ギリシア哲学まで遡らなければならないニーチェやフロイト、マルクスらとは異なり、西欧において何世紀にもわたるために忘却されたことが明治の数十年間という短い間に立ち上がる様を、漱石は目撃し、その最前線を引率していたといわれています。

Aの世界である前近代的な神話・宗教的世界に生まれ、Bの世界である天皇中心の日本国という中央集権国家が成立する様を目撃し、Cの世界である日本近代文学を作った夏目漱石。彼が高次のA、つまりDの世界として晩年に描こうとしたのが「天」の視点から登場人物を描き「私」からは離れること。個人の利益のみを追求する「個人」「私」から離れ、利他の心を持った主体的全体となる「則天去私」「一人称複眼視点」だったのではないでしょうか。

残念ながらその思想を持って描いた『明暗』は、漱石が50歳という若さにして他界したため完成しませんでした。私はそこに何かしら運命めいたものを感じずにはいられません。漱石が時代の先を行き過ぎていたため、神からストップがかかったように感じるのは考え過ぎでしょうかーーー。余談ですが、私はいつも夏目漱石をaudibleで聴いています。落語や俳句にも造詣が深かった漱石の小説はリズム、語感が良くスマホで聴くaudibleと相性抜群です。ここでもまた、100年先を行っていた漱石にようやく私たちが追いついたように感じるのです。先を行き過ぎた故に、ひとり明治を生きた漱石は、さぞ孤独だっただろうと思います。その孤独の中でも歩みを止めず、漱石が未来に託したものがそこにはあるように思います。「個人」「私」が飽和状態になった令和を生きる私たちだからこそ、漱石から受け継ぐものがそこにはあるのではないでしょうか。

加えて、「一人称複眼視点」小説の中では、語り手の地の文に中動態が多用されています。中動態とは、「見る」という動詞についていうと、「見る」が能動態、「見られる」が受動態になりますが、そのどちらでもない「見られる」という自発的な要素を含む「見える」という態を中動態といいます。例えば「ここからは高野山が見える」という言い方をした時、その主語は「私」でなくても誰にでも見えるため、個人の個別的な主体性を超えています。これはあらゆるものを目撃する(目にする)という動作・状態が主体の意志や行為とは無関係に成立していることを意味します。これは小説の決まり事である、語り手は原則一人称主体視点か、三人称客観視点を超越しています。無私と天の視点である全知視点を目指していることが伺えます。

また、現在多用されている能動態と受動態は、主体の意志の所在をはっきりさせることで、主体の所在を明確にする態です。因果律という決まり事のある小説でも多様されています。一方で中動態はある種神的因果性に基づいています。天の全知視点を目指す上で避けては通れない態です。最近では、コロナ禍中に「利他」とは何か考える機会があったこともあり、國分功一郎さんが「中動態」に注目されていますね。

●Dの世界=色即是空?=日本語の文法が変わる???

ここまでは私はDの世界の日本文学とは何か、頭で考えて読書感想文してきました。ですが、ここから先は私が実体験に基づいて、身体と心で感じたことの体験のシェアです。

私は今までに2度、深い瞑想状態に人に誘導してもらい、意識下で人は皆繋がっているということ、自分と外を分け隔てているものは自分が言語で認識しているものに過ぎないと、ほんの一瞬だけ体感したことがあります。これは曹洞宗では「悟りの一瞥」、スピリチュアル界隈では「ワンネス体験」と呼ばれているそうです。それは正に般若心経で描かれている世界でした。(ですが、人に誘導してもらって深い瞑想状態にはいることは非常に危険だそうで、後日専門にされている宗教関係の方から厳重注意を受けています。)

そこで体感したことは、「個人」「私」から離れると、遠近法的な「風景」から離れ現実の認識の仕方が変わるので、その状態を描写したときに日本語の文法が従来のものでは無くなるということでした。中動態も惜しいですが、ちょっと足りない…。

そして、今まで読んできた小説の中にも、おそらくそのことを書いていた作家さんはいました。インテリげんちゃんこと、高橋源一郎さんです。深い瞑想状態ではなく、深く暗い宇宙に銀河鉄道が吸い込まれていく様として書かれていましたが…。いつか機会があったらお話してみたいです。

このあたりのことはしっかり腹落ちさせて、今書いている小説に反映させて行きたいと思います。

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