無と人生の楽しみ

「人生を楽しみたい。」

当たり前のような、しかし最も難儀な事のようなテーマだ。

お釈迦さんが生きるとは苦しみであると悟ってしまったからか、僕自身が大きな挫折を経てそう思ったからか、この願望は今、まるで空想の産物のようだ。

現代は悲壮に満ちている。
日本はまだまだ大丈夫、いやもう終わってる、いやこれからもっと酷いことになる…
色んな考え方があるけれど、日本の未来はバラ色だなんておそらく誰も言わない。
しかし世の中なんてどうでもいいのだ。
我に返ればみんな自分の人生を生きなければいけない。

僕が今楽しいと感じること、それは絵を描くこと、美味しいものを食べること、たまに出掛けて人々の流れを感じること、変わった場所を見つけること、何か新しいことを考えること、ゲームをすること、映画を観ること、ギターを弾くこと、音楽を聴くこと、ライブやイベントに行くこと、人とくだらない話をすること、ざっと思い浮かべてもこれだけ有る。
僕は人生を楽しんでいる、それなのにそれら全てを無に帰すような虚無感が常に背後に立ってる。
これは一体なんなのだ?

「どうせ何やっても最後は結局死ぬんだろう?無意味じゃないか。」という思春期特有のニヒリズムがある。
訳の分からないやるせなさと無力感、笑いたくないのに笑ったり。楽しいふりをしたり。
みんなは何も考えず気楽なものだと決めつけ、厨ニ病的絶望感を感じてたりする。
そして少しずつ大人になって、死ぬまでに何をするかが大事だと気付く。
僕が今感じてるこの虚無感も、抽象的な「死」という概念が現実的な「不」という形に変わっただけのもので、思春期と同じ拗らせ方をしているのかもしれない。

大人になって社会貢献であったり目に見える成功体験など、時代の波に飲まれながら植え付けられた感覚の中で、何かを人生で実らせなきゃいけないプレッシャーなのだろうか。

資本主義は欲望を求め、才能を求め、増殖する形と消費を求める、つまり常に社会に還元することを個人に求めてくる構造である。
そうでなければその経験は価値の無いもので無駄な時間だと迫ってくるのだ。
レベルアップ、ステップアップ、向上、成長、というのが資本主義の口癖だ。
だから僕は人生を楽しみたくても、いや楽しいはずなのに無意味だと結論付けてしまう。自分がその価値観にどっぷりとハマっていたから。
「それが何になる?」と自分自身に問われてしまうからだ。
しかし僕はそろそろ気付きたい。
資本主義的価値観によって構成されたこの現代社会は自分の人生に大して関係無いものだと。
むしろこれからは資本主義的価値観や自由主義的競争の外にこそ生きる実感が存在できるだろう。
それは成果に結びつかない時間体験だ。
あの時間を楽しんだという認識があれば、あれが一体何になるのかなんて考えなくても良いのだ。
成果ありきの経験は虚無に追われるようにできている。
そして何も生み出さない時間ほど人生の本質を表したものは無い。
瞬間的に日常を忘れさせる一時、その後の自己満足と共に消化される時間。あとはただ寝て一日がリセットされる。
この実存性の無さこそが生きることであり、そこに唯一実存性を持たせるとしたらその一日をしっかり思い返すことだ。
今日一日、何が楽しかったか、何が辛かったか、そして明日は何が楽しいか、何にぶち当たるのか。何も実らなくても何かが通り過ぎていく
ただ一度、今日は何が有ったか振り返るだけで良い。
コレクターがコレクションを眺めるように。
経験したことを眺めるだけで意味が生まれる。
おそらく幼い頃はみんなそうしてた筈だ。
体験した時間そのものが形となり自分の中でコレクションできていたのに、いつの間にかただ自分を衰えさせる強迫観念と化していた。
衰えは社会に還元する力が失われていく事であり、資本主義に必要とされなくなっていく現象だからだ。
だから時間はただ自分を若いうちに何かしろと強迫するものになってしまっていた。
有意義なものに囲まれ社会に何か役立てていないとダメなものとなっていた。
そしたら当然生きることを楽しめなくなっていた。それだけだ。

人生を楽しむには、「何も無くて良い」ということをまず受け入れることだ。
「生きることは何も無い」それを前提にして生きれば、少しでも何か嬉しいことや楽しいことが有ればそれは鮮明に感じられるし、それ故振り返る余裕も生まれるだろう。
生きることを楽しむとは「無い」ということと向き合いながら「有る」と出会うことなのではないだろうか。