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不老不死の薬

「二郎って老年医学が専門だよね? 不老不死の薬ないの」
100キロちかくある巨体の雅弘が、フラペチーノを飲みながら私に聞いた
「ない事はない。今手に入るのは2種類あるよ」
「え、マジ?」

1年ほど前、横浜元町のおしゃれな商店街のはずれにあるカフェで、昔の同級生の夫妻と会った。
二人は手を繋いでカフェに現れるほど仲がいい。雅弘は50代後半の会社経営者である。長生きがしたいらしい。

「実際は不老でも不死でもないよ。今わかっているのはネズミの寿命を5%ぐらい伸ばすらしいということ」

「サプリなの?」
雅弘の妻の瞳が聞いた。彼女も高校の後輩だから昔からの知り合いである。

「サプリではないな。これは糖尿病の薬。医者に糖尿病と診断してもらえれば飲めるよ」
「あなた、糖尿病寸前でしょう、だからといって暴飲暴食しないでよ」
「なかなかやめられないなあ。じゃあその薬どこでもらえるの?」
「医薬品だから日本では医師の処方がないとダメです」
「二郎、処方してよ」
「そういうのは、違法だよ。海外通販でも探したら?」

雅弘は早速携帯で薬を検索し始めた。
「あるねえ。そんなに高くない」

瞳が顔をしかめた。
「買わないでよ、不健康極まりないから意味ないし」
「50歳から飲み始めても効果があるのかな?」
「ネズミと同じと仮定して計算してみよう」

私は簡易生命表を携帯で見た。主な年齢の平均余命が確認できる。55歳の男性の平均余命は28年だ。

「28年の5%だから大体1年半だね」
「不老不死という程ではないね」

しかし彼のライフスタイルでは、薬の効果はほとんどないだろう。余計なことかもしれないけど、親友への親切心で教えてやろう。
「でももう少し生活を何とかしないと効果は帳消しだろうな。細胞はそもそも不健康に扱われることを嫌う。そんなに暴飲暴食していたら効くものも効かなくなるよ」
「え、どういうこと?」
「メトホルミンは断食しているのと同じような仕組みで体を健康にさせる。例えば週に1日水だけで過ごす生活習慣みたいなものだよ」
「そんなことしなくても効果があるならラッキーじゃない?」
「そういう考え方もできるか」
「最初に薬が二つあるって言ったよね、もう一つは?」

「ラパマイシン。イースター島の土にいる菌からつつけられた。ラパヌイっていうのはイースター島の住民のことらしい」
「モアイが生き返りそうな薬だね」
「こちらの薬は犬の寿命を伸ばすらしいから、ペットに長生きして欲しい人が餌に混ぜて食べさせるらしいよ。犬は食べ物に混ぜておくと平気で食べるけど、猫は見向きもしないんだって」

その夜はカフェだけでは済まず、近くのワインバーで閉店まで付き合うことになった。彼は毎晩こんな生活らしい。

「薬より生活習慣が大事だよ」
「この人には無理よ」
「ねえ、そのイースター島の薬も買っておくからさ、食べものに混ぜておいてくれない?両方合わせたら多分3年ぐらい長生きできるはずだから」
「毒薬混ぜとくわ」
「コワー」

不老長寿の薬。実は危険な賭けだ。
体の細胞は、いろんな方法で鍛えることができる。運動や、断食は真っ当な方法だ。一方メトホルミンやラパマイシンもその仲間だが、スポーツ選手のドーピングに当たる。

そして、脳細胞には効かない。なぜなら体細胞と違って脳細胞は再生しないから、年取るとゴミが溜まるだけ。溜まったゴミが上手く排除できず、脳細胞が死んでいくのがアルツハイマー病だ。
あと、後伸びた寿命が、どの2年間なのかは不明であること。認知症として周りの状況が分からない2年なのか、それともまだしっかりしているところの2年が延びるのか。

今のところはどちらも同じぐらい延びると仮定するしかない。つまり40年から42年に伸びたとすると認知症の期間も一緒に伸びる。人生の最後の方は飛行機が雲の中を通って着陸する時のように、揺れながら目的地に着く。不安定で不健康な部分も一緒に伸びると考えるのが自然だ。

高齢になってからの不健康な期間というのは、医療保険や介護保険をより多く使う。私たちは保険料を払っているけど、実は税金もかなり入っている。介護保険では半分が税金だ。つまり伸びた部分は若い世代に借金を払わせることになる。

今度彼にあったらこのあたりのことも教えてあげようと思っていたら、ちょうど横浜で学会があり、同じカフェで雅弘と瞳に会うことができた。
雅弘は無糖のアイスコーヒーを注文した。100キロの巨体が少しだけスマートになってスッキリしていた。

「薬飲んでる?」
「もちろん、どちらも毎日飲んでるよ」
「で、酒は?」
「もう、毎日酒を飲むのは辞めたよ」
「他には?」
「毎日5キロぐらい歩いてるよ。しかも山の手の坂を」
「つまり健康な生活を送っているということ?」
「そういうことになるかな」
「でもそれでは、薬の効果か、健康的な生活の効果かわからないじゃないか」
「どっちでもいいんだよ。結果さえ出れば」
「いかがわしい不老不死の薬の話をきっかけに、雅弘が不摂生やめたのだったら、私は名医だよな」
「二郎は飲まないのか?」
「え、私が?だって私は50歳すぎて1年半寿命が伸びることには、別に喜びを感じないもん」
瞳は
「花の命は短いのよ。枝ばっかりになって生き延びたい? 私はいやよ」
「どっちにせよ女の方が逞しくて男より7年ぐらい長生きするよ」
「あんまりうれしくないわ」

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