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没落から見えて来たもの

プロフィールに書いた通り、俺は恥ずかしながらバツイチ。

でも、実際『恥ずかしい』なんて、これポッチも思ってない。
世間一般で言えば、「50超えて離婚されたダメな男」なんだろうけど…

まぁ~言いたい奴に言われておけばいいや、俺は俺だし…

って、何処かで吹っ切れている。

元嫁に離婚を切り出されたのは2020年の5月。
正直、その時の心境は…

『やっと、解放される…』

だった。

俺には子供が二人いる。
現在、高2の息子と中2の娘。
正直、その二人の子供のことが心配だっただけ。

自律神経失調症発症

三十歳を迎える歳に結婚。
だが、その披露宴パーティがきっかけで起こった悲劇が
最終的な原因でその直後に自律神経失調症を患った。
また、その話は追々…

不眠症が続き、寝ずに朝までゲームしてそのまま仕事。
それを繰り返せば、当然の結果だった。
だが、仕事では大きな仕事を任されていた。
当時の日本企業はこぞって中国進出していた頃だった。
御託に漏れず、当時の取引先だった商社とジョイントベンチャーが
決まり、俺は当時の会社で切り込み隊長役として現地調査に任命
されていた。
先ずは商社の現地法人と一緒に中国国内を回ったが、既に欧州の
企業が参入していて付け入る隙もなく、明らかに遅すぎる状況。
帰国してその事を報告したが、経営陣も会社を挙げての事業として
引くに引けぬ状況。ましてや、ジョイントベンチャーとして相手先の
手前も有った。
どう見ても、失敗する事業。
そんな板挟みの状況だったので不眠症は続き、次の中国出張が決まった時に先輩社員に相談して貰って呑んだ薬でやっと眠れた。
が、翌日中々目覚めず、覚醒したら呂律が回らなかった。
会社を休んで、心療内科へ行くとそこで初めて自律神経失調症という診断結果が出た。
それが原因で半年休職することになった。

だが、その半年は地獄だった。

・めまい
・ふらつき
・体温コントロールが出来ない
・睡眠過多
・昼夜逆転
・悪寒
…etc

今まで経験したことの無いような体の不調があちこちに出た。

お陰で、通院に行く電車すら乗れない状態。
所謂、パニック障害も出ていた。

そこで、家に引き籠り、外出は出来ず、おまけに体温コントロール出来なかったから、真っ暗な部屋で真夏にも拘らず毛布に包まって震えていた。

だが、半年の休職期間は終わり、不完全な状態で仕事に戻ることになる。

仕事復帰

仕事復帰したら、上層部が変わっていた。
入社時から俺を可愛がってくれていた事業本部長も退社。
当然、俺の事情は分かっていたが、新しい部長にノイローゼ扱いされた挙句、左遷されて工場に転勤。
営業ではない畑違いの部署に転勤させられ、更にそこから子会社に
転籍させられ、日雇い労働者がするような仕事を与えられた。

当時は『パワハラ』なんて言葉は世の中に存在しても無く、何なら労働組合にも裏切られる始末。
それでも、当時働いていた会社は東証一部上場企業の子会社。
当然、給料も良かった。

前の記事に書いた『億を動かす男』も俺だったけど、没落して左遷され、ノイローゼ扱いされて会社の人間に後ろ指差されていたのも俺。

当然、結婚前は『億を動かす男』に嫁いだ元嫁だったから、没落した俺は想定外だったに違いない。


俺は失意のどん底で約11年務めたその会社を逃げるように退職する。

離婚に至る経緯

転職しても体調は思わしくなかった。
それでも、働かなきゃと奮起して次の仕事に就き、当初は上手く行っていたが、入社二年目頃から上司が仕事に穴を空けるようになり、その穴埋めに奔走。徹夜仕事が続く日々を過ごしていた。
限界が来る前に、本社からの応援要請を依頼したが、出してもらえなかった。
長男が生まれたのは結婚後、5年経っていた。丁度、その会社に居た頃だ。
正直、諦めかけていた時に授かった息子は嬉しかった。
更に元嫁の実家の近くに分譲住宅が出来ることになり、俺は反対したが
向こうの親からも援助が出るからと、半ば強引に家を購入。
息子が1歳の時だった。
そのことも有り、もう一度自律神経失調症が悪化しては困ると思い、その会社を退職する。
これが、失敗だったかもしれない。

没落

その後に転職した会社は所謂ブラック企業だった。
早々に退職するも、また次もブラック企業。
俺はすっかり働くことに自信を無くしていた。
胡麻化してはいたが、人が怖くて思うようにコミュニケーションが
取れない俺にとって、営業の仕事は地獄だった。

自律神経失調症は悪化の一途を辿る中、元嫁は
「3つ違いの娘が欲しい」
と言い出す始末。当時の俺は正直、もう一人の子供を養う自信も無く断ったが、「兄弟が居ないのは可哀そう」とか散々言われて同意する。
しかも、それは女の子を産むためにとの理由で日時を指定されての性交渉。
怪しくて正直、疑っていた。
だが、娘は生まれた。
『そんな出来すぎた話あるか?』
と何処かで疑念を持っていたが、成長した娘は結果的には俺にそっくりだったんだが…

結果的にそれは俺にとって更なるプレッシャーだった。

毎朝、通勤で駅のホームに立つとずっと、線路を見下ろしていた。

『飛び込んだら楽になる…』

頭にはそうインプットされていたが、そんなことをしたら
残された子供たちのことを考えるとそれは出来なかった。

年収も目減りする一方。
圧し掛かる、住宅ローン。

だけど、元嫁は
「下の子が小学校に上がるまで働かない」
といい、それを貫き通した。

『働かなきゃならない』

俺にはそれしか無かった。

だが、あの頃はもう、営業の仕事をする力は無かった。
致命的だが、人が怖かった。

『もう、営業の仕事は俺には無理だ…』

そう思い、全然違う運送会社の仕事に就く。

結局、そこもブラック企業。
その後、営業には戻ったが、職を転々とした。

当然、元嫁は俺に冷たかった。
口からは
「お金がない、お金がない…」
の繰り返し。
「だったら、働けよ!」
の言い争いも度々あったが、結局、下の娘が小学校入学しても
ようやく、週3,4日しかも半日のパートを行く程度。
その上、
「家のこともして、働いてるのに!」
と言う始末。

そんな状況だから、俺にはあの家に居どころは無かった。

だから、離婚を切り出されて
『解放された』
と思ったんだ。

家を出て…

子供のことは常に気にはなっている。
特に娘は内向的で俺にしか内面的なことを話さなかったから…

しかし、一人で暮らして色んなことが見えてきた。
確かに仕事をしながらの家事は大変。

だけど、休みの晴れた日にベランダで洗濯物を干していたら
よく主婦の方が言う、
『晴れた日の洗濯は気持ちがいい!』
って気持ちが何となく分かった。

今まで気にしなかったが、家に観葉植物を置くようになった。
その成長に一喜一憂する自分がいることに気付く。

そんな些細な気付きが少しずつ見えてきた自分に気付く。

歳も歳なので、定年が見えてきたからなのかもしれないが、仕事に向き合う気持も変わった。

若い頃は我武者羅に『出世してやる』と言うことを糧に働いていたが、今は若い世代を俺が失敗したような同じ過ちをしないように助言する立ち位置で居よう。彼らが次世代を担うのだから、俺は一歩引いて後進の育成に微力ながら力になれればと言う考え方に変わってきた。

”老害”にならない様にね!

でも、俺だってささやかな夢はある。
これは若い頃からの夢で、現役引退後は田舎暮らしをすること。
もし買えれば、古民家を買って自分でリフォームして、そこにカフェスペースを作って近所の人や気の合う仲間が集まれる場所にしたい。

カウンターで自分の好きな音楽を掛けてマスター気取りでね。

そして、最期は

『我が人生に一片の悔いなし!』

って、天に拳を突き上げて終われれば最高って…


だから…

自分で自分のケツ拭けるのなら…
人生なんて、何度失敗してもいいんだって。
だから、躓いたって、起き上がればいいんだよ。

それが出来るか出来ないかは自分次第。



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