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〝私の正直〟がある場所


古いnote記事から再発見

ずいぶん前に書いた記事にスキしてもらえることがある
(ありがとうございます🎵)。

それがきっかけで古い記事を読み直してみる。

どのくらい前に書いたか?にもよるけれど、記憶力があまりよくない私は、いい感じでスッカリ忘れている(苦笑)。

先日もいくつかスキいただいたのをきっかけに、数年前に自分が書いたいくつかの記事を立て続けに読み直した。

読み直しながら、ようやくその中身や書いたときの背景を思い出す体験をした。

それはまさに…
昔のアルバムやら動画を見て、小っ恥ずかしい思いをする。

そんな感じだった。

小っ恥ずかしい思いを抱きながらも、勇気を出して、目を皿にして、読み直すと…

ホッとする自分と出会う。

そのとき精一杯、誤魔化すことなく、真っ正面から自分と向き合ってたであろう姿を確認するとホッとする。

その姿を確認しながら、
ヨシ、このときも自分なりに誠実に精一杯やっていた!

そんななんともいえない自信みたいなものが自分の中から湧いてくる。

どうやら私は何よりも、

〝そのときの自分に正直か?〟
〝嘘をついていないか?〟

そのあたりを気にしてるらしい。

昔のnote記事を読み直して、そんな自分を再発見した。

自分を守るための正直

自分に正直かどうか?

この問いって、実はそう単純なことでもない。

正直です!とどんなに思っていても、あくまでも〝そのときの正直〟。

そのときの自分の精一杯の正直、という限界があるのだ。

意図せず、無意識のうちに、ただ自分を守ろうとして、見たいようにしか現状を見てない。

そういうときもある。

自己の防衛の仕方とバリエーションのことは、心理学分野ではよく取り上げられる。

それだけまずは、自分というこのひとりの人間を守ろうというさまざまな仕組みが私たちの中にはあるのだ。

そうして人は都度都度自分のそのとき大切なものを守っている。

だから、
他の人が距離をおいて側からみたり、
時間が経って自分でも冷静になってみると…

なんであんな風にしか捉えられなかっただろう?
なんであんなこと言っちゃっただろう?

そんな風にあとから思う。

それは脅威やら不安から離れたときだから、見え方が変化する。

人はいつでも安心安全でいたい。
その確保のためなら、普段の自分では考えられないようなことをするのだ。

嘘もつけば、目の前のことを歪んでとらえることもあれば、それどころか、守るために自分や人を傷つけるような行為につながることもある…

どこまでが許されて、どこからが許されないだろうか?
どのくらい許されて、どのくらい許されないだろう?

今の私の正直

先日、父に癌が見つかった。

年齢的にはなにかあっても全くおかしくない。病気が見つかったとはいえ、今も普通に過ごしていて食欲旺盛だし、すぐにどうにかなることもないだろう。

そう頭ではわかっていても…
さすがにいつもと違う反応が自分の中にあるのがわかった。

私は成長の時期を、父の不満、嫉妬や怒りの捌け口とされることで大いに影響を受けて、後遺症として抱えるものまで背負うことになった。

父は自分が安心安全でいたいがためになんでもしたのだ。自分より明らかに弱い私に全てをぶつけることで。

でもそんな父であっても、何かあったときには、案外私自身は翻弄されるだろうと予想していた。それは、きっと父なりに、何か背負っていたのだろう、という考えが頭の片隅にはあるから。

だからといって、容易く子どもに暴言暴力という形で吐き出すことは決して繰り返されてはならない。

恨み怒りがない、と言えば嘘になる。
でも、恨み怒るだけで私が救われることはないことはわかっているから、恨みつらみに費やす時間こそ無駄と思う。

今の私。
翻弄とまでいかなくても、いつもとは違う時間が私の中を通り過ぎていくのを時折感じている。

今は暴言暴力から逃れている私は、なにより自分癒しに邁進することに時間を使いたい。癒しには、あのころの状況を自分なりに理解していくことも必要だ。

そして出来れば、同じような境遇に遭う人やかつて遭ってきた人の日々に平穏をもたらすようなことをしていきたい。

それが今の私の正直。

この正直ものちに変わっていくのだろうか??

私は私なりの精一杯。
それを昨日も今日も明日もするだけ。


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