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〝なんとなくしてしまう〟を手放すことにした


人に合わせるのがデフォルト

仕事上、人に合わせる場面が多い。

支援していて出会う人たち。

約束した時間に動けない。
計画したように出来ない。

いろんな出来ないことがあると、生活がスムーズにいきづらい。出来ない苦悩を抱えすぎないよう、寄り添うのが役割のひとつ。

だからドタキャン含め、相手に合わせてこちらのスケジュール変更することは日々折り込み済み。

ようやく組んだスケジュールの組み直しにはイラっとすることもあるけれど、仕方ない。 

というか、やって当たり前。
職務の一部なのだから。

〝なんとなくしてしまう〟が苦しい

控え目にいって、もやもや。
たまに、どうにもイライラすることがある。

それは支援する相手に合わせるとき、ではなく、同じ支援する立場の人にこちらが合わせるとき。

同じ支援する側なのに、出来ないこと、ミスしたことのフォローをこちらがすることになることがある。

もちろん私も間違えることはある。
完璧な人などいない。

そのことを差し引いても、支援する側が何度も同じミスを繰り返すことに対しては、許容範囲が広くない私は寛容になれない。

それでも、現場の支援を滞らせたくなくて、ついミスをカバーしてしまう。

しなくてもいいのだろうけど、〝なんとなくしてしまう。〟

この〝なんとなくしてしまう〟が、時に私を苦しめる。

支援が必要な現場が滞ることは、私にとって苦しいこと。
出来るだけスムーズにトラブルにならないようにしないと…。

そう思って、他でミスがあっても代わりに〝なんとなく〟なんとかしてしまう。

〝なんとなくしてしまう〟たびに、私自身にあるはずの時間やゆとりが奪われるのだ。何度もこのパターンがあると、苦しくなってくる。

でも、あなたなら出来るでしょ?と問われれば、出来なくはない…。

どこからともなく追い詰められることを避けるため、〝なんとなくしてしまう〟のだ。

〝なんとなくしてしまう〟の代わりに

〝なんとなくしてしまう〟ことは、ここに書いた支援現場でのことに限らない。
育ちの家でもそうだった。

「やれば出来るじゃん。」

殺し文句のようだ。

そして、私が出来ている様子を側から見れば、私が選んでやっている。
そう見えるし、実際そうとも言えるのだろう。

この生きグセとその影響の大きさに気づいたあとも、私はそのままにしてきた。わかってはいたけれど、〝なんとなくしてしまう〟を実際に私の手で掴んでどうにかしようとすることはこれまでなかった。

そもそも〝なんとなく〟わかっていた、だけだったのかもしれない(苦笑)。

〝なんとなくしてしまう〟を繰り返す。
なんとなくやる、のだから容易に繰り返すし、繰り返しても気づきにくい。

〝なんとなく〟というのをやめるには、気づいたその時、しっかり自分の手で掴むこと。

〝なんとなくしてしまう〟を手でガシッと掴んだら大きな一歩だ。

これから〝なんとなくしてしまう〟代わりにやること。

なんとなくしまわず、自分で決める、のだ。

何かやろうとするとき、私は、コレコレこう言う理由で、こんな気持ちでする、と自分の中で確認する。

やるなら納得してやる。
もしくは、やらない、と納得して決める。

〝なんとなくしてしまう〟は、ガシッと鷲掴みして、自分の中から放り出してしまおう。

〝なんとなくしてしまう〟スキルよ、さようなら

〝なんとなくしてしまう〟ことで、私は生き延びたと思う。

自分の外に張ったたくさんのアンテナから情報をキャッチ。
それを元に、その場を平穏に保つために、スムーズに事が運ぶよう、適すると思われる行動をなんとなくする。

そうして自分の外にアンテナを張り続けて、〝なんとなくしてしまう〟あとに残されたのは、疲れて空っぽな感じの自分。

〝なんとなくしてしまう〟っていうサバイバルスキルをすっかり手放したら、少し心許ないのかもしれない…なんて思う。

それは、今までこのスキルがあってそれなりの平穏を保って生きてこられたのも確かだから。

でも、このスキルって実はかなりエネルギーを費やすのだ。
だから、なんとなくやったあと、すっかり疲れ果てる。

だから手放すと決めた。可能な限り。
なんとなく、決めたわけじゃない。

そうしたら、自分のお腹に力がぐっと入った気がした。

何かを決めて、同時にこれまで抱えていたものを少しずつ手放す。

私の内側の模様替えプロジェクトはまだまだ続く。


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