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55. 執着の裏側


「初恋」というお題で執筆。 はじめて小説を書いた日のこと

 2018年の正月をよく覚えています。東京に就職していた娘のNの帰省したのに合わせて、実家の母を誘い、久しぶりに家族でのんびり温泉三昧としました。

 有馬は六甲山系の谷筋にある温泉場。谷崎潤一郎や志賀直哉など文人も愛されたという謂われがあるだけに、どっしりとした赤褐色の湯には鉄分や硫黄分も豊か。太古の地層に蓄積した海水がエネルギーを含み、高濃度の源泉となってシューと噴き出した良泉なのです。
 母はその昔、ヘルペスを患った時に、この湯が欠かせず、数日滞在したことがあると、よく言ったものです。熱い湯に身を沈めれば、燃える糸によって有馬から宝塚、白浜温泉まで繫がっているマグマの力を感じ、手足から重力が解放されていくような、気持ちのいい泉質が魅力でした。

 翌日の早朝。一人で床を抜け出して、湯浴みへと向かいました。地下2階の露天風呂は誰もいなくて、カエルのようにすいーっと1本、平泳ぎで、広々とした浴場の端から端まで泳いでみました。ふと顔をあげてみると、竹藪を借景に、旅館の庇ひさしと空の隙間から、細かな雪がわきあがってくるように下から上へ不規則に飛び、ぐるぐる舞う。清潔な白の片が、生きているようでした。これを視られただけでも、朝早く起きた甲斐があったと思いました。

 そしてまた、一人でいる時間が戻ってきました。

 幸いなことに仕事は途切れなくありましたので、退屈することはありませんでした。けれど、なぜだか、あの雪と出会った、たゆたう時の流れを、歯が凍るくらいの寒さのあり方を、小説のかたちで書いてみたらどうなるのだろうと思ったのですね。プロットも、構成も一切なしです。出来心で、試し書き。そんな感じの始まり方でした。たしか夜7時半くらいです。仕事場の机ではなく、ダイニングテーブルの上にMacbook Airをパカッと開けて、気負わずに。いつものWord画面に、するするっと思いついたままを書いてみた。

 そうしたら、まるで水中で息を止めていたかのように。活字の塊がさらさらっと現れてしまった。キーボードが止まったところで時計をみたら、40分経っていました。もう40分も。知らなかった。主人公の女性が、自然に呼吸をはじめて、わたしのほうをみていました。
 続きは? と催促している風でもありました。書けるかも! 小説は、書くものではなく、読むものとあたり前に思ってきましたので。顔を上げた瞬間。ちょっと大げさな言い方をするなら、自分の人生がすごく意味のある良いものに思えて。まわりの照明の色が、一段ふわーっと明るくなったみたい。え、と、思うや。うるっ、ときて泣いてしまったんですね。びっくりしました。全く予想外だったので。希望、という未知の光に自分の方から近づいていくことができたのかも。生まれてこのかた感じたことのない高揚感に包まれたのでしょうか。

 それから、幾月が過ぎました。書くこと、読むこと。やはり時間が経つごとに、手放せないなあと思うのです。視力が衰えたら、ひどく落ち込むでしょうね。といいましても、たいていは歯がゆいことや、考えの浅はかさ、自分の怠惰や不甲斐ない身勝手。高飛車な視点などに、絶望しているんですが。

 それでも、心がつながって偶然書けてしまった時。あるいは、好きな書き手の新しい一節を読んだ時。見知らぬ場所に出掛けていきながら、書き手の体温や人のかたちをした紗のようなもの、その内側に。わたしの指の腹でさわってしまったくらい、ありありと感じられてしまう。そういう時は、わたしを、とりまくものたちが、静かに安定をもって息をし、存在するのがわかります。こういうことは稀にしかありませんが、刹那なものを感じます。

 いつもは、同居人の夫がいじわるにみえたり、この人とわたしの間に深い川がながれているくらいに思えて、つらくなるのですが。その日ばかりは、これでいいのだと納得できます。そういう晩は、だからとても満足してお風呂に入るのです。服を一枚一枚脱ぎながら、そういうことか、と。これはもう初恋だ、と。知ってしまったがゆえに、知らなかったことにはできないし、戻れない。だから、私は普段苦しい奇形な岩肌の淵にあっても、しがみついている。今日、お風呂場で、確信的にそう気づきました。

 人は、初めてのものにふれる場合、ひどくぎこちなく緊張するものですが、時を経ても、その驚き、興奮、狂気の沙汰でない喜びは、忘れさせてくれません。ましてや、恋にしかり、そうだと言わねばならない。普段は意識していなくとも、なにかの拍子にひょっこり現れ出て、あの時そうだったわよね、どれくらい変わった? と主張しはじめる。そういうものであると思うわけです。


 (了)


筆名 葉月乃蓉果(はつきの・ようか) 
表紙のイラストはダイモン・ナオさん


#創作大賞2023  エッセイ部門

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