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54. 琥珀色のバーボンに酔う


「初恋」というお題で。バブル期のあの頃を思い出して執筆。

 惚れっぽい? と訊かれれば、そうでもないと応えるだろう。この人のこの部分に惹かれるというのはあるが、その人の人間をまるごと受け止め、不覚にも恋に落ちてしまうという場合には、好む好まざるや、動物的本能の臭覚みたいものが重要であって、なぜこんなことになってしまったのだろうと、考えあぐねても永遠に核心のところに行きつかない、そういうものだと思う。

 先日仕事を一本提出し、カフェに入った。ホッとした安堵とともにお昼を食べ損なったことに気づき、フィッシュ&チップスを注文しようと思い、飲み物は……、とメニューを辿っていた時、メーカーズマークの文字が目に入る。暑い日だったので、ソーダー割にしてもらった。冬小麦を熟成させた絹のような口あたりに、喉奥で味わうほろ苦さ。強炭酸のパンチが泣きたくなるほど旨かったのだ。

 30年もの月日が、転げ落ちるように降ってきた。店の名前は「チャーリーブラウン」。私は高校時代の友人と久しぶりに再会し、心がはやっていた。薄暗い中のあちらこちらから聞こえる小さな笑い。声を抑制して語るひそひそとした話し方。グラスを重ねる音。錫のシェーカーに氷を入れて振るあのシャカシャカとしたリズムが床に反響して、これまで踏み入れたことのない深淵の国にいるようだった。そこには、片耳を出し大人っぽさを強調するワンレングスヘアに、パット入りのスレンダーな服を着こなす女がいて、傍らではアイビーっぽいカーディガンの袖を胸で結んだ男が笑いかけている。あるいはスツールに小さな尻をのせて、タバコの煙のゆくえを不機嫌そうに眺める女も……。それぞれの人が、それぞれ抱えきれないほどの事情を持って、集まっていたと思う。カウンターでは、初老の男が客と話し、若いスタッフはいつ見てもグラスを磨いていた。天井まで届く壁の棚には、ウイスキー、テキーラ、バーボン、ラム、リキュールといった瓶が濡れた宝石のような光り方で見下ろしており、オーダーが入るごとにガラガラーッと派手な音をさせてハシゴを横に動かし、酒をとって降りてくる。瀟洒でいて大衆的な古いアメリカを感じるいい店だった。

 私は、といえば、賄い付き一軒家に下宿していた。おまけに、地方出身。ひとしきり友と笑いあったあと、化粧室に消え、再び戻ってきた時には、彼女は、カウンターに座っていた2人連れの男と口論していた。ひどいバトルの応酬だった。そのうち、片方の男が「周りに迷惑だから、座って話そう」と言い、私たちのテーブルに移ってきた。腰を落ち着ければ、不思議なもので時事ネタから、はてはブラックジョークまで飛び出す始末。元来、根が明るい友は、いつのまにか爆笑していた。わたしは時計をにらむ。というのも、大家のおばさんは、高血圧なうえに心配性とあって下宿の門限が22時だったのだ。 

 ふと、低い声が耳に入る。バーボンに沈んでいた氷の山を指先でまわしながら、男は言った「家族を庇護もできない男が、えらそうなことをいってもあかんぜ。親父やお袋らの幸せがあるというなら、僕は合理主義にもなるよ……」熱弁しているわりに、言葉は冷静だった。それまで私は彼らのことをよく思っていなかった。男の癖によく喋る、いけすかない、苦手なタイプだとたかをくくっていたのだ。

「もうこんな時間だし、君らタクシーを相乗りして帰らないか」。あ、やっぱり、私はそう思った。ご遠慮を願おうとすると、友のほうが「冗談じゃないわ!」と啖呵を切った。「おい、自意識過剰も、いい加減にしてくれ」熱弁男のほうも、紳士然とした態度とは一変、刺すほどに冷酷な目。プライドを傷付けられて拗ねる子どものような痛みが全身を覆っていた。

 私達は、後ろを振り返らずに店を出て、タクシー乗り場まで走った。クラウンのドアに手をかけて、からだを半分入れかけた時、声がした。今しがたの男で。右手にはベージュのジャケットが、くしゃっと握られていたのだ。店の入口で友がスタッフに渡していたことが頭をよぎる。が、「皺になるじゃないの」と吐き捨て服を受け取った。おぉー私が感心していると、「さっきは悪かった。せっかくの友達との時間だったのに、ぶち壊して……その、ゆっくりと眠てな」息をはずませながら男は言うと、すっと頭を下げた。私の手に何か渡したのだ。タクシーの中で広げるとミックスナッツと一枚のメモだった。

 3日後の週末。なぜその場所に、出掛けていったのか定かでない。けれど、その彼は、カールヘルムのブルゾンとスニーカーという気の抜けた服装で現れ、やあと手を上げた。気持ちいい天気の中、昆虫館を視て、河川に棲む生態系の生物の匂いがむわっとする秋の緑地公園を1時間くらい散歩して、それぞれの方向に別れた。あまりにも意表を突いた。

 その後も忘れた頃に電話がかかってきては、「チャーリーブラウン」の豊中店や系列バーや、カウンター割烹などに私を誘う。けれど、話し相手はもっぱら店のスタッフだ。ビジネスの話ばかりしていた。でも、その話のいちいちが、私には興味深かった。私は大学生みたいな彼の横顔を感じながら、バーボンの琥珀の香りを吸い込み、周囲をきょろきょろして、うまいものを沢山味わった。気づいたら、その人がいない時も、存在が私の中にあった。横柄な態度や、度を過ぎたことなど一度もなかった。人情味に厚く、かと思えば、誰であっても礼儀を損なう時には、辛辣に怒った。自分に誠実でありたいと考えていたようだ。その年の男がそうであるように、森のような寂しさも抱えていた。人生を楽しもうとしている風にもみえた。彼は、不思議なことには自分の友人知人を、私に合わせてくれた。皆いい人で妹のように私と接した。

 それでも、私達は、男と女として向き合うことはなかった。出会いが出会いだったし、たぶんずっと前からフィアンセがいたようである。完璧だ。

 社会を泳ぐには礼を尽くし、徳を積み、それでも複雑極まりない厳しさのあること。人間がどれほどふくよかで、温かいものか。そういったことを、教わった。好む人が、ただ側にいる。それだけで生き物というのは十分すぎるほど満足し幸福でいられることも。十代の終わりに初めて経験したのである。 

                     (了)

                葉月乃蓉果(はつきの・ようか) 筆名












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