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百年後の青二才

パシーン、スパーン!

心地良い音が響く。

心と体に。

スパーン、パシーン!

飛べ翔べ!
もっと、もっと遠くに。
大きな手の中に。
青空に。
もっと先の
未来へ。

夏休みを利用して帰省している息子と、久しぶりに魚釣りにでも出掛けようかと自慢の釣り具の手入れをしていると、

「今日は、釣りはやめとった方がいいかも知らんぞ、まともに釣れんと思うけん」

と父がやって来た。
いつもならば、クーラーボックスにビールを詰め、一緒に行こうと張り切るはずの父の表情は、何処となく寂しそうである。

ため息を吐きながら、窓の外を眺めている。

庭の木にメジロやヒヨドリが交互にとまっては、目をパチパチさせながら毛繕いをしている。

地元のニュースでも毎日のように話題となっているのが、赤潮である。

父によると、船を停泊させている近所の海はもちろん、不知火海一帯に近年稀に見る赤潮が発生し、それが原因で養殖のマダイやフグなどがたくさん死んでいるそうだ。
いつもは釣りや海水浴で賑わう馴染みの海岸から見える広大な海が褐色に濁り、まるで赤茶色の絨毯を敷き詰めたようだと父が教えてくれた。

その他にも知り合いの養殖場では、アジやカワハギ、イサキなども水面にお腹を向けて浮き上がり、息絶えてしまったそうだ。

試しに散歩がてら息子と海岸を歩いてみると、なるほど、赤い絨毯は見つけられなかったが、そのかわり普段とは異質な臭いが辺り一面充満しており、その攻撃は陸の上、道路を挟んで住宅街にまで及んでいる。

この様子では釣りどころか水遊びも散歩も出来ないなぁと、息子と二人家に帰り、アイスコーヒーを飲みながら、一緒に『猿の惑星』という古い映画を観て過ごした。

夕方になると幾分暑さも和らぎ、心なしかほんの少しだけ秋めいた風が頬をちょこんとつついたような気がした。

私達は玄関の隅にある箱からグローブとボールを取り出し、久しぶりにキャッチボールをしようと計画した。
しばらく使用していないグローブには埃がかかっていたので、少し濡らしたタオルできれいに拭き上げ、ついでに泥のついたボールを磨いて家の前の広場へ向かった。
トンボの群れの向こうに、夏を象徴する入道雲が所狭しと青空を陣取っていた。祭りの時よく買っていた、娘の大好きな大きい綿菓子のようであった。

隣の雲は、三匹の魚がジャンプしているような形に見えた。
一番大きな雲が私で、二つの小さな雲が子供たちだと昔なら考えていたかも知れないが、今では息子の方が身体も大きいので、自分は二番目に膨らんでいる雲だなぁ、そんな長閑な考えを浮かばせながら、息子に白いボールを投げていた。


平成十五年の秋、妻が病気で他界した。

息子がもうすぐ二歳、娘は間もなく一歳になろうとしていた。

私は息子をおんぶし、娘を抱っこして熊本の実家に帰って来た。

それまで住んでいた妻の故郷の新潟に比べると、九州は比較的温暖ではあったけれど、息子はほっぺたが寒さで赤く腫れていたので、私は缶に入ったニベアクリームを塗ってあげたのを今でも覚えている。

それ以外の記憶はあまり無く、バスの窓から見える海や空を、ただなんとなくぼんやりしながら、魂の抜けた人形のような目で眺めていたに違いない。

田舎に帰ると、幼い頃走り回った自然が、私たち頼りない小さな家族を迎えてくれた。

「こんな不便なとこ、早く出て行きたいばい」

いつもそんな風に毛嫌いしていたはずの山や海が、今度は幼い子供たちと、乾電池の切れたロボット同然の私自身に熱いエネルギーと真新しい魂を与えてくれた。

「いろいろ大変やったな。あんまり慌てんでいいから、ゆっくりのんびり、これからのことも考えていけばいいけんな!」

その父の言葉を聞いた時、私は恥ずかしながら初めて親の愛情というものに触れた気がした。

自分もこの子たちの父親だ、メソメソしていてもなんにもならん、ミルクも作らなんし、オムツも替えないかん、しっかりせんか!こんバカが!

そんな風に自身を叱咤激励しながらふと見る田舎の自然は、まるで昔可愛がってくれたばあちゃんのような優しい表情で背中をいつも後押ししてくれた。
まるで、
「ゆっくりね、しっかりね、休み休みね」
そう励ましてくれるようであった。


ある秋の日、イルカウォッチングに行った。
小学生だった二人の子供は大はしゃぎだった。

クルーザーに乗り、大海原を走る、駆ける!

ガイドさんの解説を聞きながら、胸を躍らせ大冒険の幕開けだ。
なんと言ってもまずはイルカ達の遊泳するポイントをとにかく目指す。
一年を通して遭遇出来る確率は九十パーセント以上らしい。

子供たちはみんな船先に向かい、清々しい海風と芳醇な塩の香りを全身に浴びている。波に乗る船の軽快な揺れの度に大きな声を挙げ、海賊にでもなったような気持ちで前を見る。
クルーズガイドがパネルや地図を指差しながら、イルカの生態について興味深い話をしてくれる。

小さい子供が、
「おねえさん、なんでイルカのお船に乗ってるの」
と素朴で純情な疑問を投げかける。

そのガイドさんがニッコリ笑い、目を大きく開いて身を乗り出しながら男の子に向かってこう答える。

「私はね、東京で育ったんだけど、みんなみたいに小さい頃から海とか生き物が大好きでした。サメとか、シャチとかクジラとかが可愛くて可愛くて、その中でも特にイルカが大好きで、図鑑を読んだり両親に水族館に連れて行ってもらったりしていました。大人になるにつれて、この大好きなイルカに関わる仕事がどうしてもしたいと思うようになりました。たくさん勉強して学んでいくうちに、イルカさんと仲良くなるにはどうしたらいいんだろう?そんな風に毎日考えるようになりました。そっか、それならイルカさんの近くにいられる仕事をしたらいいじゃない!?そう思いつき、今の仕事をしています!」

周りから大きな拍手と歓声が聴こえた。

ガイドのおねえさんも、少し照れながら波飛沫を浴び、お日様のような素敵な笑顔で子供たちにお礼を言った。

日焼けしたガイドさんの輝く姿が、眩い太陽の陽を浴び、さらに一層光って見えた。

娘を抱っこし、息子の手を引いて船のもっと前の方へ上がった。

「ざぷーん、ざぷーん!」

と、息子も大喜びだ。

娘はまだ少し怖そうな様子だったので、抱っこしたまま椅子に座り、

「ほら、怖くないよ、お兄ちゃんも友達もルフィーみたいに元気に笑ってるよ!」

と言うと、少し落ち着き慣れたのか、自分の小さな手で手すりを触ろうと頑張っていた。

船はいくつかのポイントを周った。

緩やかに旋回しながらイルカと遭遇出来る地点を探索している。

「無事にイルカと出会えればいいですねぇ」

同じように子供連れたお父さんとそんな会話を交わしながら気持ちの良い風を浴びていた。

「さぁ!お待たせしました!皆様、船の周囲をご覧ください!」

アナウンスが船内に響き渡る。

私たち家族も、先ほどのお父さん一家と一緒にデッキへ登り、用心しながら船の前方、そしてさらなる船先へ向かう。

娘を抱っこして手すりにつかまり注意深く周囲を見渡す。

「あっ!!パパ!パパー!イルカだー!イルカさんだー!!」

黄色い声が、いや、虹色の大きな歓声があちらこちらからこだましている。

すごい、すごい!

いっぱいいるよ!

壮大で優雅なイルカの群れだ!

水飛沫を高らかにあげ、軽快に飛び跳ね、クルーザーに追随している。
前方、四方八方、いる、いる!

イルカの大群だ!

ジャンプ、ダンス、ステップ、乱舞だぁ!!

進む、進む!
飛ぶ!
跳ぶ!
翔ぶ!!

皆が写真を撮ったり、大きな声をあげてはしゃぎ、拍手を送り、魅惑の、至福の時間がゆっくり、はっきり、鮮やかな尾を引いて流れゆく。

イルカの家族と貴重な駆けっこを楽しみながら、船はやがて心と魂をわずかに残しながら港へと舵を取る。

息子も娘も、同い年くらいの友達も、船の先端に勇敢に立ち、一仕事を終えた海賊船のクルーのように誇らしげに、高らかに腕を挙げ、魂を鼓舞しながら笑顔で叫んでいる。

「進め!進め!行け!行けぇー!!」

と。


そんな懐かしく、色鮮やかな記憶を辿りながら息子とキャッチボールを楽しんでいると、息子がこう言った。

「パパ、おれがこっちにいる間さ、もう一回魚釣りに行きたいな。赤潮、無くなってたらいいな。前みたいにキレイな海に戻ればいいのにな」

私は、数ある色の中で、青が一番好きである。
高校時代、語学研修でアメリカに行った時、セスナ機から見たグランドキャニオンの湖も、大学の卒業旅行で行ったイタリアのナポリから眺めた地中海も、心が弾む純粋無垢の青色であった。

空も海も、湖も川も、そして産まれる前のお母さんのおなかの中も、同じ青の世界なんだろう。だから人はこの唯一無二の色彩を目にする時、自然笑顔となり、赤ん坊のように安心するのだろう。

私も息子も、まだまだ青二才だ。
この大きな父なる地球の足元にも及ばない。
しかし、青二才でも青五十才でも、こうして生きている。

イタチだってカエルだって、庭のネコだって。

百年後も千年後も、この場で、こうして誰かがキャッチボールをしているだろうか?

白いボールが返ってくる。
私はそれを受け、掛け声と共に投げ返す。

パシーン、スパーン!

心地良い音が響く。

心と体に。

スパーン、パシーン!

飛べ翔べ!
もっと、もっと遠くに。
大きな手の中に。
青空に。
もっと先の

未来へ。

遙かなる、
あしたの明日の
そのまた未来へ。

飛んでゆけ。







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