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小説『寄せるものたちとの冒険』(3102文字)

 もうちょっとだけ走ろうかな、なんて思いながらペダルを漕いでいると、いつの間にか海まで来てしまっていた。
 海というのは、いわゆる海水の溜まったそれではなくて、地表のクレーターのことだ。
 クレーターの近くでは、しばしば、月や隕石に引っ掛けられた魚が打ち上げられているのを見ることができる。僕はこの海岸から見える海が気に入っていた。もちろん海岸というのも砂浜のことではなくて、単に海のへりだから海岸と呼んでいるだけで、実際にはただの荒れ地にすぎない。
 でも僕は、そういうのは気にしないたちだ。今まで何がほろんでいたって、今あるものを見るべきだ。
 リュックサックからサンドイッチを取り出して、昼食にする。するとその匂いをかぎつけたのか、一匹の潮鼠が寄ってきた。
 こいつは僕にとって数少ない知り合いのひとりだった。

「よう、今日は泳ぐのかい」

 僕は潮鼠に訊いた。潮鼠はいつものように、ぶくぶくに太った体を引きずるように歩いてきて、僕の目の前で止まった。
 もちろん潮鼠に泳ぎなどはできないし、そもそも泳ぐつもりなどなかっただろう。なぜならこいつらは水の中で生きられないのだ。

「来いよ、貝殻を拾おう」

 僕は潮鼠に一声だけかけて、クレーターを滑り降りた。貝殻というのも本当の貝ではなくて、爆弾で消し飛び損ねた、古い文明の遺物のそのまた欠片みたいなものだ。
 クレーターの底には砂しかないけれど、その少し先に行くと、岩がごろごろしている。岩の上には大きな穴が空いているところがあって、そこには小さなカニに似た何かが住んでいたりする。
 さすがの僕もカニに似た何かを食べることはできなくて、そいつらとは挨拶を交わしたりするだけだったけど、とにかくそういう場所だった。
 海と陸の境界のような場所で、僕はここを訪れるたびに不思議な気持ちになったものだった。だってここは陸地であって、決して海ではないはずなのだ。
 そのうちに、不思議なものを見つけた。クレーターの中心あたりに大きな空洞ができていて、そこからはずっと下の方まで降りられるようになっているらしい。
 潮鼠はそこへ向かっていくらしかった。
 僕もそれについていくことにした。なんとなく、気になるからだ。
 空洞の中には螺旋状の階段が続いていた。
 どこまでも続いているように見えた。
 すると潮鼠が突然振り返って言った。
 
 ──お前はどうしてそんなに遠くへ行くんだ?
 
 それは幻覚であるはずだった。潮鼠は言葉を発しない。これはつまり、単に僕がそう感じただけのことだ。
 
「意味なんてないさ。退屈が嫌なだけで」
 
 僕は返事をしてから、自分が答えていることに驚いた。でも確かに、それが自分の言葉であることにも確信を持てていた。まるで、自分以外の何かが僕の身体を動かしているような感覚があった。

 ──じゃあ俺と一緒にくるか?

 潮鼠の言葉の意味はすぐにわかった。こいつがどこへ連れていこうとしているのか、それをすぐに察することができた。そしておそらく僕はそれに従うことができるのだろうということも。
 しかし僕は断った。なぜなのかわからないままだ。

 ──お前なら、きっとうまくやっていけるはずだぞ。俺みたいになりたくはないだろ?

 それから潮鼠はその空洞の中を下へと進んでいった。どうやらこいつはこの下に用があるようだった。僕はそれについていくことしかできなかったので、仕方なく後に続いた。
 どれだけ進んだ頃だろうか、不意に景色が変わった。壁の色が変わって、空気までも変わったように思えた。そこはまるで海底にいるようだった。暗くて湿っていて、生暖かい風のようなものを感じる。
 ただ不思議と息苦しくはなかった。だから深海と呼ぶべきかもしれない。でもやはり深海と言うほど深い場所ではないようで、天井がぼんやり見える程度の深さだと思われた。

 ──ここは、この世界の中心だ。ここからはあらゆる場所に行くことができるんだぜ。

 潮鼠が自慢げに言うので僕は訊いてみた。

「どうやって?」

 ──知りたいのか? それは、あらゆる場所のうちどこかに行きたいということか? お前が?

 潮鼠の声音が変わり、僕は少し緊張した。まるで誰かが僕に乗り移ったかのような、妙な雰囲気を感じて怖くなったのだ。

「行きたいところがあるって言ったら、教えてくれるか」

 僕は恐るおそる尋ねた。

 ──いいとも。それで、どこに行きたいんだ?潮鼠はあっさりと答えた。

「どこでも行けるっていうんなら、月へ行こう」

 僕は即答していた。それは本当に何の考えもなく、思いついたままに口に出した言葉だった。
 潮鼠はしばらく黙っていた。

 ──なるほど、月にね。お前はあれか、自殺志願者ってやつか。

「そうかもな。あんまり考えたことはなかったけど」

 僕は適当に相槌を打った。

 ──まあいいさ。お前を連れていくくらいわけねえよ。月の女王は美人だぜ。

 せいぜい楽しんできなよ。

 潮鼠の姿はだんだんと薄らいでいって、そのまま消えてしまった。
 僕はそこで目が覚めた。夢を見たようだ。まだ太陽は高くて、時間はたっぷりあることがわかった。
 せっかく海にきたのだと思って僕は服を脱ぎ捨てると、その中へ飛び込んだ。冷たい海水の温度を全身に感じているうちに段々と気分が良くなってきた。僕は泳いで泳いで泳ぎまくった。水の中にいるのはとても楽しかった。月の海の水はあまりにも透明度が高くて、宇宙の星空がそのまま水の底に沈んでいるのがよく見えた。

「——」

 僕の名前を呼ぶ声に振り返った。その声の持ち主が誰であるかは知っていた。尊いお方。その美しい姿。
 その方は、僕に手を差し伸べてくれた。そして、僕の手を引いてくれた。その手には不思議な温かさがあった。それは僕の身体が冷え切っているからだとすぐに理解できたけれど、そんなことはあまり関係なかった。僕は彼女の大きな手に身を委ねて、そして気がついたときには水面から引き揚げられて、掌の上にいた。
 下方に青い地球が見えていた。そして目の前には彼女が立っていた。彼女は、女王は、とても美しかった。

「……」

 僕はその言葉を口にしようとして、けれど上手くいかなかった。口を開いてもただ酸素が漏れ出て行くだけで、喉が動こうとしなかった。やがてその唇さえもが凍りついたかのように動きを止めて、僕はもう言葉を喋ることもできなくなった。

「——あなたは私を恨むかしら?」

 僕の耳に囁かれたその言葉は、ひどく寂しそうな響きを持っていた。僕はその言葉を理解しようと思った。でも、何も考えることができなかった。僕はもう死んでしまったのかもしれない。だってここはこんなにも静かで、恐ろしい場所なんだ。ここは月の果ての海のはずなのに。
 それでもなぜか僕は、あの星を見てみたかった。青くて冷たくて、そして静かな光を放つ星々の姿を。僕はもう一度口を開こうとする。けれどどうしても動かない。呼吸もできない。
 僕は目を閉じてみた。真っ暗だ。
 でもそこには何かが見えるような気がした。

 潮鼠がいた。そいつは何匹も集まってきて、海の底を泳ぐみたいに、潮鼠たちは螺旋状に昇っていく。そいつらはみんなぶくぶくに太っていて、まるでこの世の終わりみたいな光景だった。僕は少しだけ悲しくなって、でもなぜか少し笑いながら、潮鼠たちの向かう先を見つめた。

「……潮鼠は死ねないのよ。永遠にね」

 女王様が言った。僕は目を開いた。
 僕は、死んだはずじゃなかったのか?
 僕は自分の両手を見る。動く。生きている。
 
 ああ、潮鼠は死ぬことがない。
 永遠だ。
 
 潮鼠が昇っていく。螺旋を描いて、いつまでも。

〈了〉

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