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ぼくにはいつも手を伸ばして取れるものしか手を伸ばさない。202303307tue258

3484文字・60min




今日は字数の制約なしに書く。
昨日、向こうのnoteのコメント欄にて返事があった。
心に感じ入る。
こういう琴線の触れ合いは当事者の胸に仕舞われるほうがいいと思う。
ヘタに返信をするなかれだ。

いま戯曲(台本)のプロットを書いている。
新年からプロットばかり書いている。
マンガのプロット、小説のプロット、戯曲プロット。
徐々にプロットのコツがつかめてきた。

以下はぼく個人の話なのでつまらない。
読むに値しないような記事だ。
それでも読みたい方は鼻をつまんで読みながしてください。


■今般、戯曲を書いて、気づいたこと。


「もっと自由に描ける!」ということだった。

もちろん、戯曲は「舞台構造」や「キャスト」「キャストの人数」などを考慮して書かねばいけない。
だが、劇作家が戯曲に「二次元」の世界を書いたのに対して演出家が「三次元」に組み立てるわけだ。それを観客が鑑賞する。
「役者」「台詞」「音楽」「装置」あるいは「臭い」なども「演出」としてあるかもしれない。
逆説的にいえば劇作家は、二次元(文字)で目一杯書いて良いのだ。

ぼくは自分が演出するものだと勘違いして冒頭の「秋山稔」の登場シーンをバイクで設定した。だがイメージは違ったのだ。
「秋山稔」は主人公「桜井晴人」の妄想の人物なのでオチとしては同一人物である。だからシーンを描いていて(もっと派手に登場をさせたい! なぜなら秋山稔は桜井晴人の憧れの人物なのだ! できればアメ車が大群で登場して煙が去った後に一人で登場するみたいに!)これは自分が勝手に舞台を制限していたことになる。

ぼくは戯曲を書いているのだ。演出は演出に任せるべきだ。
現代ではスクリーンを使ってシーンを映像で観客に見せることもできるし、劇作家が書いたド派手なシーンを演出するのが演出なのだ。

■自分の作家性を発見しつつある。

小説にせよ戯曲にせよ物語を書くにおいて、ぼくは自分自身がどうしても書いてしまうテーマ性(心的トラウマ)があるのがわかった。

その前に、村上春樹さんのキャラについて書く。最薄な読者であるぼく個人の感想が多分にふくまれるので読みながすか、読まないほうがいいかもしれません。

ぼくは村上春樹さんの短編は網羅はしてないけれど、長編はそれぞれ五回ずつ読んだ。長いあいだ読んでいないと長編はなにかしら手に取って読んでしまう。
短編、長編かかわらず村上春樹作品の主人公の「僕」は、非常に固い殻に閉じこもっている。「僕」はいかなる意味においても他者に心を許さない。物語を読むたびにそんな部分が垣間みえる。一見、何不自由なくつづいていたように見える夫婦生活に、ある日とつぜん妻がいなくなる。
「あなたは良い人。けれど私が欲しいものをあなたは私に何ひとつ与えてはくれなかった」というメモを残して。
奥さんが失踪する部分は創作に違いない。が、おそらく村上春樹さんの芯の強さあるいは孤独というものは、妻に逃げられる「僕」の殻にある。

それでいてだ。
物語の「僕」は、妻が逃げたそれ事態では慌てたりはしない。「僕」が妻の失踪を重く捉えていないというわけではないのだが、作品が、読者が「僕」に気軽に感情移入できるタッチの小説に仕上がっていることでそれが逆に村上作品の凄み(深み、硬度、重厚性といえば良いのか)になっている。
あのタッチでこういう「誰にもがありうる喪失感」=共鳴性あるテーマを「読ませる」ことはなかなかできるものじゃない。
主人公の「僕」自身が気づいていない喪失感を読者はありありと感じてしまうのだ。こういう村上春樹さんの物語の作劇術はぼくはなんど読んでも唸ってしまうのである。

主人公の「僕」は、だいたい三十過ぎて予備校の講師で年上の彼女(セックス)に不自由しない。スパゲッティを茹でていると妻が失踪する。だとかそういうムック本にある村上春樹解説はそっちに任せます。

電話やスパゲッティそれらは「僕」の孤独(喪失・欠落・穴)を取りまく殻(装置)が際立つ世界観を構築する一部(道具あるいは装飾)にすぎない。ただ村上春樹さんは便利でつかっているだけだと思う。
筆者村上春樹はどんどんと物語の先を書きたい(読者に筋の先を読ませたい)わけだし、ただの妻の失踪を他の凝った喩えで魅せる場面じゃないですよね。そこは一、二行でサラッと物語を進行させたい。
こういうのは書き手になってからすごくわかるようになった。

今度は読者には申し訳ないが、ぼく蒼井のこと。
今から並べる事例を読むだけでぼく蒼井という人間の心的トラウマ(殻)がありありとわかります。
では以下有料です。
となっても読み手に価値があるものでなければ買ってもらえないので無料で恥を晒しますが。笑。

⑴小学二年〜四年の頃は同級生のHちゃんが好きだったが、ぼくはHちゃんはぼくの親友のNくんのことが好きだと思っていた。まだ九つだ。モヤモヤしながらも小五の春に転校することになって小四の終業式の日にプレゼントをもらった。ディスニーの柄のガラスのコップだった。引っ越した先で母がソッコーで割ってしまって泣きそうになったが。
後日談としては十年後。予備校の階段の踊り場でHさんとばったり出くわした。あの忍者のように壁にへばりついた動揺の仕方で(えっ!もしやぼくのことを…)となったが、十年の空白はあとの祭りだった。

これを皮切りに、実は他にも枚挙にいとまがない。

⑵中学は中一から中三の卒業まで片思いだったYさんを尻目に隣の席手だったKさんとつき合う。

⑶大学で始めた劇団の振付師のMさんに一目惚れをした。ある公演で女優が本番の三週間前に逃げた。その事件がきっかけでRさんが出演を承諾。が、RさんはMさんのスタジオのダンサー仲間だ。ぼくとRさんは親密に。体力ある若い俳優とダンサーだ。毎日セックスをした。で、オチはMさんとRさん友だちでMさんの部屋はRさんの部屋の真上だった。

これは奥さんの件にも当てはまる。
⑷中国の大陸映画に心酔して中国へ渡ってある中国女性に惚れた。けれど韓国女性と結婚することになった。娘がいるのでこれ以上は書けないが人生はこんなものだと思う。

これ以上のナンバリングは避ける。笑。

ここでビートたけしの話を。
はるか昔、TVタックルの番組でいった言葉だ。
「情けねえんだけどよ、おいら、キャバクラ行くと、ナンバーワンのネエちゃんに行けねえんだ。『おいらは世界のキタノだぜ! 』って言ってもすぐに抱けそうなナンバーツーのネエちゃんに行っちゃうんだよなァ」

この言葉はいつまでもぼくの脳裏に刻まれている。

村上春樹さんはそのいわゆる「二番手にしか行けない・大本命に行けない男の性」を換骨奪胎した形で「4月のある晴れた朝に100パーセントの女の子に出会うことについて」という短編を書いている。
物語で100%の運命的な恋愛相手を物語の虚構という形を現してみせる。設定は現実では絶対に100%ありえない話だ。村上春樹さんの巧いところは、真実をそのまま物語に置き換えれば蒼井や北野武の経験が物語となる。だが、その物語の構造を脱構築して、パラドクシカル(逆説的)な裏の構造をたてる。そうやって物語の構造を神話的(人類共通の共鳴性)にまで落としこむ。それもあんなに軽い筆致で。人生は短い。愛は一瞬だ。

戯曲を書いていて下記の言葉がセリフが溢れでた。
やっぱりそれがぼくの作家のテーマなのかなあと思った。

居酒屋:

秋山稔
「お前は、あの女に一目惚れしている! それなのに、お前は、幼稚園のころからずっと二番手ばかりに手を出そうとしている。さらに言えば、二番手に声をかけることすらできない! 蚤の心臓だ! 結局のところ、きみは、人生で何も手に入れることができずに終えるんだ! お前はいつも手を伸ばして手に入れられるものしか手を伸ばさない腑抜けだ! そんな腑抜けはいまここで死ね! 」

桜井晴人
「ぼくはそんな稔に誘われて、二人で劇団を立ちあげることになったわけです。稔は脚本と演出を手がけ、僕は制作を担当することになった」


ダラダラ書いた最後に。
ぼくが映画館に三度足を運んだ戦争(戦車)映画の脳裏に刻まれたセリフを。

■映画「フューリー」の一場面。


戦車の副操縦士で新人兵士のノーマンとウォーダディー(ブラピ)はドイツの村に入って休憩をする。ノーマンは、その部屋の少女エマと一晩を過ごすことに。心が触れ合って、愛し合う二人だが翌日、部屋は砲撃にあってエマは死んでしまう。

泣き崩れるノーマンに、装填手は腕を巻きつかせて、ヘラヘラと笑ってこういう。

「そんなことで泣くなよ。女はこれからもいっくらでも湧いてくるんだぜ」

作り手側として、こんな状況、こんなに読者の頭を反芻させるような言葉。一編の小説を紡いでこの渾身のセリフ。これがぼくが目指すひとつの到達点だ。





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