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おじさんには死なないでほしかったりする (エッセイ)

おじさん、というのは私の長年の文通相手のことで、血縁関係にない。
私が昔住んでいた家の、目の前のアパートに住んでいた“おじさん”というだけ。

おじさんは私が一歳くらいの時、外を歩いている私を見て、可愛いからおぶって近所を散歩に出かけたらしい。
私がいなくなり、私の家族は驚いていたと悪びれず語るおじさんは、今の時代であれば立派な“人さらい”だ。

そんなおじさんより10以上も年の若い両親に対して、私は「親はいずれ死ぬもんだ」と幼い頃から割り切って過ごしているからか、なんとなく両親の「死」には構えていられるし、たびたびシュミレーションもしてきた。(実際は取り乱すだろうけど)
だけどおじさんの死に関しては、なんだか現実的に考えたくない。

おじさんはいずれ死ぬ。
おじさんの今の様子を見ていると、誰が見ても“あっぱれ”な死に方をしそう。
自分の気に入った生活スタイルの中で、思い残すことなく人生を全うしそうなタイプ。

それでも、どんなにおじさんが立派だろうが、私は「おじさん」ではないから、同じように立派に見送る自信がない。

私の叔母が亡くなった時のこと。
叔母やその姉妹は敬虔なクリスチャンで、叔母の葬儀に参列した際は、皆涙を流しながらもとても明るかった。参列者全員で何曲も歌を歌い、叔母をたくさんの花で囲んでいくと、なんだかわからないけれど叔母が天使様と手を繋いでいるようなイメージを持った。火葬の直前には
「○○(叔母の名)またね。私らもあとから行くからね〜」
「イエス様によろしく〜」
こんな声掛けをしながら送り出している姉妹たちを見て、信じるものがあるって強いなぁと思った。
実際そのあと私の母は、そのことを羨ましく思ったのか「洗礼を受けたい」と言い出した。

おじさんの魂と体は、まだまだ死ぬ気がないだろう。だけど、おじさんの考える最期(プラン)について、少しだけ話を聞かせてもらいたいな、なんて気持ちもある。
一方で、この約30年間、実父の何倍もおじさんとは言葉を交わしてきたけれど、実際には何年かに一度会うか会わないかなのだから、最期までその距離を保つことは大切なのかもしれない、とも思う。

おじさんは何かと黙っていられないタイプの人だから、きっとそのうち聞き飽きるくらいに自分の最期のプランについて書き綴ってくるかもしれない。それを期待しつつ、まだ私の心の準備が整っていないうちには居なくならないでね、と高齢の友達に無理な頼みをごとを(心の中で)している。




#エッセイ






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