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小説 | ならわし (③)

その日初対面の医師は、なかなかの高齢だった。夫の家系の出産のほとんどに立ち会ってきたのだそうだが、陰気臭く加齢臭も酷い。

「初産は、まあ大変だぞ」
医師はしゃがれた声でそう言って、診察台に横たわる私の腰幅でも採寸するように、胴のあたりに手を当てた。
「今までに事故はなかったんですか?」
私ははっきりと聞いた。
「事故……どっちに?旦那?妊婦?」
このとぼけた言い方が信用ならない。
「どちらもあるんですね」私はわざと大きく息を吐いた。
「出産は元々命がけだ。だけどなにかあれば提携病院にすぐ連絡するから安心しなさい」
この医師は知らないのだろう。私は夫に懇願されて、その提携病院からわざわざ移ってきたのだ。

その時、隣のカーテンがさっと引かれて夫が顔を覗かせた。
「問題ありませんでした」
夫とともにカーテンの中から現れた看護師がすました顔で言った。
「ちゃんとついてたか」医師が笑う。
夫が上気した頬で照れている。

夫に出産法の詳細を聞いてからとんでもない嫌悪感に襲われたことは、もうだいぶ前のことのように感じる。
「僕の睾丸に紐を結びつけて、それを君が引っ張るんだ」
夫は真面目な顔で言ったのだ。
「君が苦しいとき、辛いとき。いつだって紐を引っ張ってくれていい。僕のことは気にしないで。そこで感じる痛みは僕にとっては栄誉だから」
「栄誉?」
あまりにもばかばかしく呆れた私は、逆をいくように冷静な気持ちになって夫に尋ねた。
「睾丸に結んだ紐を引っ張るということは、出産のとき、あなたは何処にいるの?」
「多分、君の頭の上。枕元に立ってる」
私は絶句した。下半身を顕にして、睾丸から紐を垂らした無様な夫を見上げながら、私は壮絶な出産に臨まなければいけないのだ。
かつて、頭蓋骨が見えるような大怪我を負った女子プロレスラーでも、人生で味わった痛みのワースト3に出産の痛みをあげていたというのに。

・・・

「先生。睾丸に紐を括り付けて引っぱったら、取れてしまわないんですか?」
私は真面目な顔で尋ねた。
医師は半開きの口から、はっと息を吐いて、私の隣に立っている夫の顔を見た。私は医師の視線を追って夫の表情を見た後、夫の影に隠れるようにして立っていた看護師が、緩んだ顔を隠すように、素早く下を向いたのを見逃さなかった。

医師と看護師が質問の答えを濁した様子から、これまでに事故は度々起きているのだろう。それでも夫の家族がこの出産法にこだわる理由、それはなんであるのか。私はそれを知りたかった。
私は、夫の母に会う決心をした。



つづく


#短編小説
全九話


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